「日本の地方は排他的だから外国人が暮らすのは難しい」と言われることがあります。アメリカ人の夫と、いわゆる“ハーフ”の子どもを3人持つ私にもそんな気持ちがあり、東京の杉並区から長野県松本市へ引っ越すときには「夫が地域に受け入れてもらえないのではないか」「子どもたちがいじめられたらどうしよう」なんて不安がちょっぴりありました。しかし結論から言うと、それはまったくの杞憂に終わりました。

 外国人が珍しがられるのは確かかもしれません。長野県に住む外国人の人口は約3万5千人、割合にして1.7パーセントで、東京都の外国人人口約46万5千人・割合3パーセントと比べたら少ない・低い数です。個人的にも、公園や児童館へ行って外国籍の人と出会う確率は東京の方がかなり高かった感覚がありますし、長野でわが子と道端を歩いていると「あっ、英語の子だ!」と小さい子に指さされることがあります。

 でも珍しいからこそなのか、よく声をかけてもらえます。長男のママ友に「〇〇くん(長男)のお姉ちゃん、△△小学校に行ってる? うちの姪も同じ学校なの」と訊かれたり、近所のお店の店員さんに「この前旦那さん、町内会の掃除に参加してくれたでしょう。ありがとうね」と言われたり。どこに行っても目立つのが気まずい、とやがて感じるようになるかもしれませんが、今のところは気になりません。

 外国人同士のつながりも強くなります。ひとりと知り合うと雪だるま式に人間関係が膨れ上がり、知り合いの知り合いが実は知り合いだった、とスモールワールドを体感することもしばしばです。仲間同士で「あの店は牛ひき肉が安い」とか「あそこの直売所に行くと生のディルが買える」と情報が飛び交い(たいてい外国料理に使う食べ物の話題)、「子どもが×歳なら□□さんのとこも同じだ。会ってみたら?」と紹介してもらえることも。世界の狭さにやがて息苦しさを覚えるようになるかもしれませんが、これも今のところは気になりません。

 地方に暮らしていると、自分の重みをずっしり感じます。自分がこの地に生きている手ごたえ。誰かに見てもらえている感覚。もし家族に新しい命が増えたら喜んでくれて、自分の命が失われたら悲しんでくれるであろう人が近くにいるという実感があるのです。

 だからこそ、自分ひとりの行動に重みが伴います。たとえばこの冬、ご近所みんなが行きかう我が家の前の道が凍り付いていて、お隣さんにやんわり指摘されたことがありました。「北向きで日が当たらないところは、雪が解けずに凍り付いちゃって危ないの。その前に塩カルを撒いておけばいいんだけどね。塩カル持ってる? なかったらうちの使ってもいいよ」。道の氷は誰かが取り除いてくれるものではない、他でもない自分が地域のためにやるべき仕事なのだと初めて気づいた瞬間でした。他にも松本では、ゴミ当番や川の清掃・草取り、お祭りの準備・片づけなど、町内会の仕事が2〜3カ月に1回は発生します。東京では目に見えない誰かがいつの間にか済ませてくれていた物事を、ここでは住民同士が自らの手を動かして行うのです。

 アメリカ南部育ちの夫はもちろん、大人になってから雪国で暮らすのが初めての私も、雪がやがて氷になることも、その対策は事前にせねばならないことも、住民として取り除く必要があることもわかっていませんでした。そしておそらく、ずっとこの地で暮らしているお隣さんにも、私たちがわからないことがわからなかったのではないかと思います。雪がやがて凍り付くなど、雪国育ちの人にとっては地球が丸いのと同じくらいの知識。今回お隣さんは親切に声をかけてくれましたが、言わずじまいの人もきっといるはずです。「よそから来た人は塩カルも撒かなくて困る」と、胸の中で不満を募らせてしまうかもしれません。

 言わずじまいが発生するのは、移住者のほうも同じです。先日、松本の伝統行事である「三九郎」の準備に夫が参加したときのこと。三九郎は他地域で「どんど焼き」「左義長」などと呼ばれる行事で、トップの写真にあるようなやぐらを組み立てます。組み立てるのは町内会の男性陣の仕事。屈強な男性たちが黙々と働く様子に圧倒され、夫は何をしたらいいのか皆目見当もつかず立ちすくんでいたそうです。でもやがて意を決して、キビキビ木材を運ぶベテラン風情の男性に「自分は何をしたらいいですか」と日本語で尋ねたところ、「実は私も初参加でわからない、とりあえず目についた木を運んでいる」と優しい声で答えが返ってきて、心から安堵したそうです。わからない、どうしたらいいかと正直に口に出したら、案外同じ境遇の人がいるかもしれないという発見でした。

 そのベテラン風の男性が、後から私に言いました。「旦那さん、実は日本語できるんですね」。きっと、夫に何語で話しかけたらいいかわからず声をかけずじまいの人が多かったのだと思います。外国人移住者と住民との間にすれ違いがあるとしたら、言葉の壁が多分に含まれるでしょう。日本語が多少できる夫でも、いや多少できるからこそ、「日本語にはあいまいな表現や立場に応じた話し方が多いから悩む。間違ったニュアンスの言葉を使って相手の気を悪くしたらと思うと、なかなか声をかけにくい」と言います。こうしてお互いの言わずじまいが進むことで、「地方で外国人が暮らすのは難しい」となってしまうのかもしれません。でも、決して地方の人が外国人嫌いなわけではないし、むしろ地方で暮らす方が自分の重みを感じられて心地よい。家族に外国人を持つ、いち移住者としての感想です。

〇大井美紗子(おおい・みさこ)
ライター・翻訳業。1986年長野県生まれ。大阪大学文学部英米文学・英語学専攻卒業後、書籍編集者を経てフリーに。アメリカで約5年暮らし、最近、日本に帰国。娘、息子、夫と東京在住。ツイッター:@misakohi

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