4歳の長男は今日もご機嫌斜めです。幼稚園でいちばんのお友だちが、お父さんの転勤で遠方に引っ越してしまったからです。

 幼稚園はもう春休みだというのに、毎日のように友だちの名を口にします。「なんでAくん引っ越しちゃったの?」「この車、Aくんに見せたかったのに」。A君のお母さんによると、A君本人はすっかり新天地に慣れて寂しさはひとかけらも見せていないそうで、未練がましいのは私の息子だけです。私も最初は息子のいじらしさに涙し、そうだね、寂しいよね、なんてなぐさめていたのですが、それが数週間も続くといい加減げんなりします。「しょーがないでしょ、Aくんのお父さんの会社が決めたんだから! またすぐ会えるってば!」

 でも、4歳児にそんな理屈は通用しません。いや、大人にだって納得し難いものです。一体どうして転勤しなきゃいけないの? 転勤の必要性とはなんだろうか? 得意先との癒着を防ぐためとか、社内機密情報を知りすぎないようにするためとか、将来管理職になるには各支店で人間関係を構築しておくべきとか、もっともらしい理由は色々つけられますが、転勤がなくたって汚職する人はするし、人望を得られる人は得られるでしょう。一箇所に留まっていると社員はダメになるという考えは、会社が働き手を信用していない証拠ではないかと思います。

 転勤は、弱い立場の人間に集中するともいえます。家を買った途端に転勤を命じられたなんてグロテスクな話をよく耳にしますし、新人の転勤もよく行われます。同じ部署で職場結婚したら夫婦ふたり、あるいはどちらかが転勤しなければならないという話も聞きます。「転勤するくらいなら辞めます」とは言いづらい立場の人たちに辞令が出されるわけです。

 私自身の話をすると、5年半務めた会社では計3回転勤を経験しました。同期の中でも多い方だったと思います。初めて転勤を言い渡されたのは入社してわずか3カ月目。会社は京都と東京にあり、東京に配属されたと思ったら6月の半ばに「2週間後に京都へ行ってくれ」と言われたのです。これから大都会東京で、摩天楼の間をヒールでコツコツ闊歩し、休日はあれこれお出かけしようとガイドブックまで買い込み、期待に胸を膨らませているときでした。人事の部長さんは「京都もええとこやで、キミ大学が大阪やさかいすぐ慣れるやろ」と笑っていましたが(きっと会社のほうでもそういう配慮があったのでしょうが)、私の目の前は真っ暗でした。京都が嫌とか東京が好きとかではなくて、わくわく積み上げていた公私の計画を一太刀でなぎ倒されるような理不尽を感じたのです。会社って怖いところだと、入社3カ月目の若造は恐れおののき、絶望しました。

 それから2年半経ち、京都にもすっかり慣れたなと思っている頃に2回目の転勤を告げられました。2回目はすっかり慣れたもので、3回目ともなるといい機会だとばかりに当時交際していた夫と結婚することを決めました。会社に何を言われても平然と受け止める、それがカッコいい社会人のありかただと思っていたのです。でも今振り返ると、初めて転勤を言い渡されて泣きべそをかいていた新入社員のときの姿のほうが、人として自然な感情を抱いていたように思えてなりません。

 3回目の転勤に付き合ってくれた夫はアメリカ人です。アメリカの会社には、私たちが知る限り日本のような転勤制度はありません。夫自身は父親が海軍に勤めており、アメリカ国内と海外合わせて18年間で7回引っ越したのですが、それはアメリカの中でも特殊な例だそう。navy brat(親が海軍の子)とかmilitary brat(親が軍の子)という言葉があるくらいで、「ご出身はどちら?」と訊かれたときに「自分はnavy bratだから」と言うと、「生まれ故郷がどことは言えないくらい引っ越しが多かったのか」と察してもらえるそうです。みな転勤が頻繁にあることを承知済みで志願しており、だからといって「知ってて入ったんだから文句を言うな」というわけではなく、家族ぐるみで引っ越しを繰り返すことへのケアがしっかり行われます。金銭面でのサポートはもちろん、引っ越しのたびにコロコロ変更する必要がないよう軍関係者専用の保険や銀行があり、軍関係者専用のスーパーで故郷の食べ物が手に入り、子どものためにデイケアや学校も用意されています。とにかく「転勤が多い分あなたと家族の人生を支えます」という姿勢がうかがえるのだそうです。それくらい、雇用主の都合で住まいを転々とさせることは働き手の負担が大きいということなのでしょう。

 日本の会社は、そこまで面倒を見てくれるでしょうか。引っ越しに伴う生活面のサポートを、社員の配偶者(主に妻)にお願いしていないでしょうか。転勤のないエリア総合職や地域限定職は、昇進や昇給まで限定されていないでしょうか。私も日本の企業に勤めていたときは転勤を「我慢して当たり前」「我慢してこそ評価される」と思い込んでいましたが、アメリカの文化を知るとそれはまったく必要のない我慢だったなと思います。慣れ親しんだ土地を強制的に移動させられるなんて、人として嫌で当然です。「なんでAくん引っ越しちゃったの?」と嘆く4歳児を見ていると、初めて転勤を言い渡された当時の素直な悲しみを思い出します。

〇大井美紗子(おおい・みさこ)
ライター・翻訳業。1986年長野県生まれ。大阪大学文学部英米文学・英語学専攻卒業後、書籍編集者を経てフリーに。アメリカで約5年暮らし、最近、日本に帰国。娘、息子、夫と東京在住。ツイッター:@misakohi

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