戦国時代は常に臨戦態勢だったとはいえ、大軍が戦場へと移動して、命をかけて戦うには、相応の準備が必要だった。出陣前の作戦会議にはじまり、兵の招集、人数の確認、出陣の儀式、兵站輸送、そして着陣まで。週刊朝日ムック『歴史道Vol.29 戦国時代の暮らしと作法』では、そんな「出陣の手順と作法」を特集。今回は、領内からいち早く兵を集める「陣触れ」について解説する。
戦国大名は合戦の開始前、陣触れ(出陣の命令)によって将兵に動員を掛けた。いくつか例を確認しておこう。
年未詳七月十五日、北条氏は下野壬生(栃木県壬生町)に出陣すべく、清水氏に陣触れを行った(「正木文書」)。陣触れには「東の敵(北条氏と敵対する北関東の諸大名)が壬生に軍事行動を展開したとの報告があったため、出陣することになった。すぐに支度をし、軍勢も相応に準備すること」とある。
急な出陣だったため、要点をまとめて要請したものだ。しかし急ながら、相応の軍勢を引き連れるように求めているのは重要で、単身での出陣要請ではなかった。
戦国時代の主従関係も、鎌倉時代から続く「御恩」と「奉公」である。主君が家臣の知行を安堵(御恩)し、知行を安堵された家臣は合戦が起こると、軍役(奉公)を負担した。なお、この軍役は、知行から得られる石高によって決められている。
陣触れの「早馬」が出されると、家臣たちは急いで兵を招集し、集合場所へ馳せ参じなければならない。そのため、常日頃から甲冑や刀、槍などの武具の手入れは怠らず、旗差物など合戦に必要な道具も準備していた。

さらに、早馬以外に使われた方法として、陣鐘や法螺貝もあった。
神奈川県藤沢市の遊行寺には、延文元年(1356)に鋳造された銅鐘がある。かつて遊行寺は、伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦道寸との交戦で全山が焼失した際、銅鐘も北条氏によって小田原に持ち去られた。
その後、この鐘は陣鐘として用いられたが、寛永三年(1626)十二月に戻ってきた。陣鐘は、寺院の鐘を転用した例が少なくない。
また、長野県佐久穂町の自成寺の鐘は、武田信玄が寄進したという「明応八年(1499)未十月吉日作之」の銘がある。この鐘も、陣鐘として用いられた。長野県松代市の真田宝物館にも、「弘治三年(1557)八月日」の銘を持つ陣鐘がある。明智光秀が坂本城(滋賀県大津市)で用いた陣鐘は、光秀の菩提寺の西教寺(同上)に所蔵されている。
法螺貝は密教儀式の法具で、行者が山岳修行の際に猛獣を追い払うために用いた。法螺貝の音はよく通るので、出陣の合図としては最適だったと考えられる。
このほか、武田氏は狼煙を使うことで、広い領国内で情報伝達を行ったという。ただし、陣鐘、法螺貝、狼煙は、事前に約束事(鐘の合図の意味など)を決めておかなければ、まったく意味をなさなかった。
※週刊朝日ムック『歴史道Vol.29戦国時代の暮らしと作法』から