司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描いた陸軍情報将校、明石元二郎の孫であり、上皇さまの同級生として知られる明石元紹氏(87)。学習院の幼稚園で明仁親王に出会い、80年以上の歳月が過ぎた。戦時下では明仁皇太子とともに日光で疎開生活を送り、高等科ではともに馬術部で青春を過ごした。皇室を見守り続けてきた明石さんは、眞子さまと小室圭さんの結婚問題に何を思ったのか…。



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「もう、生まれながらにして特権的な身分を持つ王室や皇室が存在できる時代は、終わったのでしょう。それどころか、もう取り返しのつかないところまで来ている。眞子さまの結婚問題を通じて、わたしはそう感じました」

 お金でトラブルを起こし、自分たちの要求だけを28枚の文書にまとめた小室さんという男性の生き方。そうした男性を魅力的だと受け止める内親王のふるまいからは不安しか感じない、と明石さんはため息をつく。

 国民の幸せを祈り、世界の平和を願う――。

 それが皇室の人間の大切な務めであるはずであった。終戦から間もなく、明仁皇太子の教育を担う参与となったのは慶応義塾大学塾長を務めた小泉信三だ。近代皇室は欧州の王室から帝王学を学んだ。英国王ジョージ5世の在位期(1910−1936年)。第一次世界大戦などの混乱によって多くの国で君主制が廃止された。その激動期でも英国民が安定感を失わなかったのは、ジョージ5世王の主義と信念の一貫に負うところがあった。

 小泉は福沢諭吉の『帝室論』や英国王の伝記をもとに、そう君主の姿を説いたのだ。王の生活は責任と負担ばかりで、慰楽と休息が少ないこと。無私聡明(そうめい)、道徳的に信用ある人格を持つためには、どうするべきか。その教材が英国王の伝記『ジョージ5世伝』であった。

「無私の心で国民に心を寄せる―。その役目を担うのは天皇だけではない。皇室のすべての方のお役目でもあるはずです」(明石さん)

 軽井沢の「テニスコートの恋」で始まった上皇ご夫妻の恋愛と結婚を当時、取材していた朝日新聞記者の故・佐伯晋氏によれば、明仁皇太子は、正田美智子さんに結婚の直前までこう言い続けていた。

「自分は普通の結婚の幸せを保証してあげられない。皇太子という特別な立場にあっていちばん大事なのは公の義務であって私事はその次の問題である」

 皇室を担う立場として「公」を第一に考えた厳しい決意。一方で、帝王学だけを学んでいても国民と価値観が乖離(かいり)しかねないという危機感を抱いていたようだ。明石さんは、明仁皇太子のこんな言葉を幾度も聞いた。

「人の気持ちを分かるようになるためには、普通の結婚をして、人と同じ暮らしをしなければだめだ」

 上皇ご夫妻の結婚から60年以上が過ぎて、皇室は大きく変わった。たとえば、学校だ。1877(明治10)年に華族のための学校として明治天皇、皇后の臨席のもと開校した学習院に通うのが皇族の「常識」であった。

 しかし、平成に入ると早稲田大学や国際基督教大学(ICU)、お茶の水女子大附属小中学校など、個性に合う環境を求めてさまざまに選択を広げていった。女性皇族も公務以外の勤務をこなし、価値観や交流の場を広げた。

「皇室が国民の考えを理解し寄り添うのはいい。しかし肝心なのは、理解することによって、何が生み出されるのか、です。皇室の人間としての立場や取るべき行動は一般の人たちとは異なります。きゅう屈な皇室を出て、一般の人たちと同じ生活を、ただ喜んでいるだけでは皇族としての務めは果たせません」(明石さん)

 先の小泉信三は皇室の役割について、「民心融和の中心」だと説いた。皇室のメンバーには、そうした自覚が必要だと明石さんは話す。

 海外の王室も日本の皇室も時の権力や政治、そして外交に利用され、翻弄(ほんろう)されながらも国民に対して誠実さを示し、互いの信頼関係を築くことで存続してきた。

 そのためには『無私であれ』、『私』よりも国民の幸せを願った生き方への覚悟が必要だ。だが、それを若い世代の皇族方に望むのは酷であり、不可能な時代になった、と明石さんは言う。「公」を優先させる皇室で、生きよと望んだところで、矛盾しか生じない。

「眞子さまの結婚問題が皇室への敬愛や支持を失わせるきっかけとなったのは、確かです。ただ、若い世代の皇族方にそうした皇室教育を行ってきたご両親方や祖父母世代にも責任はあると思っています。皇室制度そのものに、すでにほころびは生じていた。眞子さまと小室さんの問題は、瓦解(がかい)への引き金を引いたにすぎない。皇室はもはや異質な存在になりつつあると感じます。日本は、皇室を必要としない国へと成熟したのではないでしょうか」

 令和皇室はどこへ行くのだろうか。(AERAdot編集部・永井貴子)