プーチン大統領(アフロ)

 ロシアの侵攻から2年が経過するも出口の見えないウクライナ戦争。長引くにつれ注視されているのが、ロシアによる核使用だ。これまでロシアが公開してきた公式文書から、ロシアの軍事・安全保障を専門とする小泉悠氏がその可能性を分析。朝日新書『オホーツク核要塞 歴史と衛星画像で読み解くロシアの極東軍事戦略』から一部を抜粋、引用部分などは削除し、再編集して紹介する。

* * *

■核戦略理論から見た現在のオホーツク要塞――「抑止の信憑性」をめぐる問題

 特に日本の安全保障環境とオホーツク要塞の関わりについて考えてみたい。まず取り上げるのは核戦略理論と第二次ロシア・ウクライナ戦争の関わりである。

 極東からウクライナは遠い。例えば聖域の本丸であるカムチャッカ半島のルィバチー基地からウクライナの首都キーウまでは7500キロメートルほども離れており、この二つの地域に関連性があると直感するのは難しいだろう。しかし、この戦争がロシア連邦という国家が行っているウクライナへの侵略行為である以上、オホーツク海の聖域はやはりそこに一定の役割を持っている。

 ロシアはオホーツク海の聖域を含めた核戦力の脅しを用いて西側が実力でロシアの行動を阻止できない状態を作り出し、これによってウクライナへの侵略を可能にしたということである。

 だが、それに構うことなく西側が軍事介入を行った場合はどうか。ウクライナに侵攻したロシア軍がNATO(北大西洋条約機構)軍に阻まれた時、ロシアが全面核戦争を始めるだろうとはさすがに考えにくい。かつてマレンコフ首相が認めたように、それは人類の共倒れを意味することになり、結果的にロシアはこのような核による報復を躊躇せざるを得ない可能性が高いからである。つまり、ロシアの核抑止は一方的に西側に対して働いているわけではなく、ロシアもまた西側の核戦力によって抑止を受けているということになる。

 このようなジレンマは、冷戦初期の米国が直面したものでもあった。当初、核戦力で圧倒的な優位を誇っていた米国は、ソ連によるあらゆる侵略に対して全面的な核報復で応じるという大量報復戦略を採用していた。しかし、ソ連が予想よりも早く核兵器を実用化し、その配備数を急速に増加させていくと、こうした一方的な核抑止戦略は破綻する。代わって登場したのが、相手の侵略の度合いに応じて対応を細かく変化させられるだけの核・通常戦力を保有しておくという柔軟反応戦略であり、冷戦期の米国における軍事戦略の基礎となった。

 これと同じことが、冷戦後のソ連の軍事戦略でも繰り返された。1993年に公表されたロシア初の『軍事ドクトリン』では一種の大量報復戦略が採用されていたが、小規模紛争のために人類が破滅しかねない全面核攻撃をロシア政府が決断できる(あるいは西側にそのように確信させられる)見込みは薄かった。核戦略の用語で言えば、「抑止の信憑性」が担保できなかったということになる。

■三つのシナリオ

 これに対して、1997年のバトゥーリン国防会議書記の軍改革案では、戦争終結のために戦略核兵器を限定使用するという考え方が打ち出された。ただ、これはあくまでもバトゥーリンとアンドレイ・ココーシン第一国防次官による私的な案であって、実際にロシアの核戦略として公式に採用されたのかどうかは明らかでない。

 ただ、3年後の2000年に公表された改訂版の『軍事ドクトリン』では、核使用基準に関する記述がたしかに変化した。すなわち、(1)ロシア連邦とその同盟国に対して核兵器を含む大量破壊兵器が使用された場合には核兵器を使用する、(2)通常兵器による大規模侵略に対しても核兵器を使用する、とされたのである。このうち、(1)は古典的な核抑止を示唆するものだが、(2)にはより幅広い解釈の余地がある。大雑把に類型化してみると、次のようなシナリオが考えられよう。

・戦闘使用

 戦況が不利な場合、戦術核兵器を大規模に戦闘使用する。つまり、全面核戦争に至らない範囲で核兵器を使用してあくまでも勝利を目指すという考え方であり、冷戦期の限定核戦争論とほぼイコールに捉えることができる。

・戦争終結の強要

 進行中の戦争において、ロシアに有利な条件で(あるいは受け入れ可能な条件で)戦闘を停止することを敵に強要するため、ごく限られた規模で核兵器を使用する。この場合、核使用の目的は戦争の勝利ではなく停止に置かれるが、敵の戦意を喪失させるために「受け入れがたい損害」を惹起することが求められる。具体的には、数十万人の民間人死傷者を出すような対価値攻撃を行って、戦闘を停止しなければこれと同じことが続くというメッセージを出すことが想定される。

・開戦・参戦阻止

 潜在的な敵がロシアに対して戦争を開始すること、あるいは進行中の戦争にまだ参加していない国(または同盟)が参戦してくることを阻止するため、核兵器を限定使用する。この場合、当該の第三国を逆上させる恐れを排除するため、核兵器はほとんど(あるいは全く)犠牲者の出ない形で使用される。具体的には船舶の航行が稀な海域や、ごく少数の軍人だけが勤務する軍事施設等の上空における核使用が想定される。

 米国がいう「エスカレーション抑止(E2DE:escalate to de-escalate)」の考え方は、このうちの戦争終結と開戦・参戦阻止の双方を含んでいる。つまり、限定核戦争で勝利を目的としない先行核使用全般がE2DEと呼ばれているわけだが、そのどちらを追求するのかによって核使用の様態はかなり変わってくるということが読み取れよう。

 では、ロシアは本当にこのような核戦略を持っているのかどうか──つまり、いつ・どんな場合に・どのような形で核使用を行うのか。現在に至るも、ロシアはこの点を明確にしていない。その後の2010年版『軍事ドクトリン』や、現時点での最新バージョンである2014年版『軍事ドクトリン』に記載された核使用基準は2000年版と大同小異であって、停戦強要や開戦・参戦阻止を目的として核兵器を使うとは述べていないのである。ソーコフは、2000年版軍事ドクトリンに追加された新たな核使用要件がエスカレーション抑止を指していると述べており、この考え方に従うならば既にロシアの核ドクトリンにはE2DE型核使用(あるいは参戦阻止型核使用)が盛り込まれていることになるが、その可能性を示唆すること自体が目的の神経戦に過ぎないとの見方もまた根強い。

 ただ、2010年代後半には、ロシアの公式文書には微妙な変化が見られるようになった。その第一は2017年に公表された『2030年までの期間における海軍活動の分野におけるロシア連邦国家政策の基礎』で、ここでは「軍事紛争がエスカレーションする場合には、非戦略核兵器を用いた力の行使に関する準備及び決意をデモンストレーションすることは実効的な抑止のファクターとなる」(第37パラグラフ)とされた。第二に、2020年に公表された『核抑止の分野におけるロシア連邦国家政策の基礎』では、「軍事紛争が発生した場合の軍事活動のエスカレーション阻止並びにロシア連邦及び(又は)その同盟国に受入可能な条件での停止を保障する」ことが核抑止の目的の一つに数えられた。

 ただ、これらはあくまでも「一般論として」このような核使用のあり方が想定されるという体裁になっている。前述のとおり、核使用要件を定めた最上位の政策文書である『軍事ドクトリン』の内容に大きな変化が見られない以上、E2DE型核使用をロシアが真面目に考えているのかどうかは「わからない」というのが今のところ最も誠実な答えになろう。

■「裏マニュアル」は存在しない

 これは別段、奇異なことではない。核兵器使用の具体的なシナリオを明らかにしないのはどこの核保有国も概ね同じであるからだ。ロシアだけが特別に秘密主義的なわけではなく、どんな条件で核を使うかを曖昧にしておくことこそが核抑止の信憑性を保つ上で必要なのである。

 それでも最低限の核使用基準を明らかにしている核保有国は少なくないし、ここまで見てきた通り、ロシアもその一つである。このように対外的に公表される核使用基準は宣言政策と呼ばれ、「我が国に対してこんなことをしたらこっちは核を使うからな」というメッセージを発することにその最大の眼目がある。専門用語で言えば、戦略的コミュニケーション(strategic communication)の道具が宣言政策である、ということになろう。

 これに対して、実際の核作戦計画は運用政策と呼ばれる。このように書くと、運用政策とは「裏マニュアル」のようなもの、すなわち宣言政策には書いていない「本当の核使用基準」が記されたリストが想像されるかもしれないが、現実の運用政策とはこのようなものではない。最高司令官である大統領からの命令を達成するために、どの程度の核攻撃を、どのような手段で、いかなる目標に対して加えるのかを定めた具体的なターゲティング戦略が運用政策の本質である。

 つまり、国家の首脳が核使用という究極の決断を下すときには、頼りになる「裏マニュアル」などというものは存在しない。平時に軍が作成した運用政策の中からどれを実施させるのかは、一人の政治家の決断にかかっているのだ。例えばロシアが戦術核兵器の大量使用によってあくまでも戦争を継続しようとするのか、あるいは限定核使用によって戦争終結を強要しようとするのかは、ある特定の条件下におけるウラジーミル・プーチンという政治家の決断次第であって、それ以前において明確なことは(プーチン本人にさえ)わからない。宣言政策とはあくまでも宣言に過ぎないのであって、実際の運用政策とは基本的に紐づいていない(紐づけようがない)のである。

 ただ、ある国がどの程度の核使用オプションの幅を持っているのかは、ある程度まで外形的に把握しうる。例えば北朝鮮が保有する核弾頭は2022年時点で最大で45〜55発、現実的には20〜30発程度と見積もられているから、米国に先制核攻撃を仕掛けてその核戦力を一掃するような戦略を採用することは物理的に不可能である。とすると、北朝鮮指導部の思惑がどうあれ、少数の核弾頭と運搬手段の生残性を確保して米国にとって「受け入れ難い損害」を惹起できる能力を持っておくこと─いわゆる最小限抑止戦略が現時点での可能行動であると想定できよう。

 一方、ロシアは考えうるほぼ全ての核使用オプションを持っている。例えばロシアの戦略核戦力は米国よりやや劣るものの世界第2位の規模を誇り、「大まかな均衡(ラフ・パリティ)」下における相互確証破壊を達成している。戦術核戦力を含めた非戦略核戦力(NSNF)については1800発程度と世界最大規模であると見られており、その運搬手段も弾道ミサイル、巡航ミサイル、戦術航空機と一通り揃えている。可能行動という観点から言えば、核戦略理論が想定するあらゆるオプションを行使可能であるということになる。