紫式部日記絵巻(模本)、出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-8375?locale=ja)

 多くの妻を娶り、ハーレムのようにも思える平安時代の天皇。しかし、その内情は気楽なものではなかったそう。平安文学研究者・山本淳子氏の著書『平安人の心で「源氏物語」を読む』(朝日選書)から一部を抜粋、再編集し、紹介する。

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■後宮(こうきゅう)における天皇、きさきたちの愛し方

 平安時代の天皇は一夫多妻制である。これを私たちは「英雄色を好む」と受け取りやすい。権力があるから次々ときさきたちを娶って、よりどりみどりで相手をさせているのだろうと。確かに平安時代、特にその初頭には、きさきの数は非常に多かった。例えば大同四(八〇九)年から弘仁十四(八二三)年にかけて天皇の位にあり、譲位後は嵯峨野(さがの)で高雅な上皇生活を送った嵯峨(さが)天皇(七八六〜八四二)には、名前が判明するだけで二十九人ものきさきがいた。これを聞くと「平安時代の天皇になってみたい」と、ひそかに思う男性もいるかもしれない。しかし、それは思い違いだ。平安時代の天皇の結婚は、欲望を満たすのが目的ではない。確実に跡継ぎを残すこと、一夫多妻制はそのための制度だった。嵯峨天皇もさすがに子だくさんで、男子二十二人女子二十七人を数える。子どもの名前が覚えきれたのだろうかと、冗談のような心配さえ浮かんでしまう。

 だが、子だくさんなだけでは天皇として不合格だ。跡継ぎとは次代の天皇になる存在なのだから、どんなきさきの子でもよいというわけではない。即位の暁には貴族たちの合意を得て円滑に政治を執り行うことができる、そんな子どもをつくらなくてはならない。それはどんな子か。一言で言えば、貴族の中に強力な後見を持つ子どもである。ならば天皇は、第一にそうした跡継ぎをつくれる女性を重んじなくてはならない。個人的な愛情よりも、きさきの実家の権力を優先させることが、当時の天皇の常識だった。

 こうなると、天皇が「よりどりみどり」という訳にもいかないことも、推測がつくだろう。貴族たちは、天皇がしかるべき子どもをつくることを期待している。それはしかるべき家から送り込まれた、しかるべききさきと、しかるべき度合いで夜を過ごすことを期待し、見守っているということだ。摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)、大臣、大納言(だいなごん)。天皇はきさきの実家を頭に浮かべ、その地位の順に尊重しなければならない。つまり、その順で愛さなくてはならない。天皇にとって愛や性は天皇個人のものではなかった。最も大切な政治的行為だったのだ。

 こうした当時の常識に照らせば、桐壺帝(きりつぼてい)が「いとやむごとなき際にはあらぬ」更衣(こうい)に没頭したことは、掟破りともいうべき許しがたい事件だった。皇子誕生は政界の権力構造に係わる。実家の繁栄を賭けて入内(じゅだい)したきさきたちが怒るのは当然のこと、「上達部(かんだちめ)、上人(うへびと)」など政官界の上層部が動揺したのも、これが自分たちの権力を揺るがしかねない政治問題だったからだ。

 さて、『源氏物語』が書かれる直前、時の一条(いちじょう)天皇(九八〇〜一〇一一)には心から愛する中宮定子(ちゅうぐうていし)がいた。『枕草子』の作者・清少納言が仕えた、明るく知的な中宮である。だがその家は没落していた。そこに入内してきたのが、時の最高権力者・藤原道長の娘で、やがては紫式部が仕えることになる彰子(しょうし)である。定子は二十三歳、天皇は二十歳、そして彰子自身はまだ十二歳。年の差もあって気が進まない天皇だが、道長や貴族たちの手前、定子よりも彰子を重く扱わなくてはならない。その苦しい胸の内は貴族たちの日記や『栄華物語』『枕草子』などから知ることができる。結局定子は翌年、皇子を遺して亡くなった。辞世は「知る人もなき別れ路に今はとて心細くも急ぎたつかな(知る人もいない世界への旅立ち。この世と別れて今はもう、心細いけれど急いで行かなくてはなりません)」。一条天皇は悲しみにくれた。

『源氏物語』の執筆が開始されたのは、この出来事のわずか数年後だ。いうまでもなく、桐壺帝は一条天皇に、桐壺更衣は定子に酷似している。更衣の辞世「限りとて別るる路の悲しきにほしきは命なりけり(もうおしまい。悲しいけれど、この世と別れて旅立たなくてはなりません。私が行きたいのはこんな死出の道ではない、生きたいのは命なのに)」は定子の辞世と言葉が通う。また遺児の光源氏を天皇が溺愛し後継にしたいと願ったことも、定子の遺した息子・敦康親王(あつやすしんのう)に対して一条天皇が抱いていた願いと同じだ。

 紫式部は面白さを狙っただけではない。一条天皇の苦しみは、一人の男性として抱く愛情と、天皇として守るべき立場とに挟まれての人間的葛藤だった。紫式部の描く桐壺帝も、実に人間的だ。人間を見据え、天皇という存在までもリアルに描く。それが『源氏物語』だといえるだろう。

 こうした『源氏物語』は、定子を悼み天皇の心を癒やす力をも持っていた。当の一条天皇がやがて『源氏物語』の愛読者となったこと、これは紫式部自身が『紫式部日記』に記している。