西武で活躍した張誌家

 NPBでは、アメリカや中南米出身の助っ人が多く活躍しているが、韓国や台湾などアジア出身の助っ人も少なくない。その中で、活躍期間こそ短かったものの、今も記憶に残るアジア出身の投手たちを振り返ってみよう。

 まずは今年1月に43歳で他界した元西武・張誌家(チャン・ズージャ)から紹介する。

 2001年に地元・台湾で開催されたIBAFワールドカップの3位決定戦で、日本代表を5安打完封。この快投により、一躍日本球界の注目を集め、翌02年シーズン途中、西武が巨人との争奪戦の末、契約した。

 来日初登板となった6月2日の日本ハム戦で、6回無失点で勝利投手になり、先発ローテ入り。8月12日のロッテ戦で28イニング連続奪三振の日本記録(当時)を樹立するなど、10勝4敗1セーブ、防御率2.71でチームの4年ぶりVに貢献した。同年、エース・松坂大輔が故障離脱した西武にとって、同じ“松坂世代”の最速151キロ右腕は、まさに救世主だった。

 翌03年は7勝7敗、防御率4.98と今ひとつの成績ながら、6月14日のロッテ戦での“幻のノーヒットノーラン”が印象深い。

 この日の張は被安打1の10奪三振完封勝利を挙げたが、唯一許した安打は、3回1死、喜多隆志の左飛を和田一浩がグラブに当てて落球するという微妙な一打。マリンスタジアム特有の強風で打球が思った以上に伸びたことがアダとなり、記録は安打に。もし、エラーと記録されていれば、ノーヒットノーラン達成とあって、張も「記録はヒットでも、自分の中ではヒットではない。今からでも記録が直りません?」と未練たっぷりだった。

 翌04年は9勝を挙げ、オールスターにも初出場したが、その後、肩の故障で自慢の速球が影を潜め、05、06年と2年連続1軍登板なしで終わると、契約期間を残したまま、実働わずか3年で退団し、日本を去った。

 最速151キロの速球と多彩な変化球を操り、“コリアン・エクスプレス”と呼ばれたのが、96年に巨人入りした趙成珉(チョ・ソンミン)だ。

 高麗大時代に韓国ナショナルチームのエースとして活躍した趙は、早くから海外でのプレーを望み、高校3年のときに大学進学を理由にドラフト指名を断っていた。「指名するなら、大学を卒業してからにしてほしいと言って逃げていた」(週刊ベースボール95年11月25日号)。

 大学3年の94年10月、広島で開催されたアジア大会の際に、巨人対中日の“10・8決戦”をテレビで見たことがきっかけで、巨人入りを決意。翌年の韓国のドラフトで指名される前に巨人と8年契約を交わした。

 1年目は肩を痛めて出遅れたが、翌97年は7月以降抑えに定着し、1勝11セーブを挙げた。

 そして、3年目の98年は先発ローテ入りし、6月6日の中日戦で3安打完封を記録するなど、前半だけで7勝と大活躍。オールスターにも初出場をはたした。

 だが、7月23日のオールスター第2戦、8回から登板した趙は9回1死後、突然右前腕部に異変を感じ、治療のためベンチに下がる。本人は交代を訴えたが、全セ・権藤博コーチ(横浜監督)は「いけるだろう」と続投させたといわれる。同年の横浜は38年ぶりの優勝がかかっており、前日登板した自軍の佐々木主浩を連投させたくなかったからでは?の憶測も飛び交った。

 趙は2死満塁のピンチを招きながらも無失点に抑えたが、球宴後、右肘炎症と診断され、シーズン後半を棒に振った。ここから野球人生は暗転する。

 翌99年春に右肘内側副靭帯の断裂が判明。手術を経て、00年に10試合、02年に6試合に登板も、復活にはほど遠く、02年オフ、契約を1年残して自らの意思で退団。帰国後はハンファでプレーし、斗山のコーチも務めたが、13年1月、私生活でのトラブルなどから、39歳の若さで自ら命を絶った。

 韓流スターも顔負けのイケメンで、“デウン様”の呼称で女性ファンを虜にしたのが、15年にロッテ入りしたイ・デウン(李大恩)だ。

 入団時からイケメンぶりが評判になり、シーズン前にもかかわらず、外国人選手としては異例のグッズ販売が行われる人気ぶり。同時期に話題をさらった巨人・マイコラスの“美人妻”ローレン夫人に対抗意識を燃やし、「マイコラスの奥様には負けません」(球団担当者)と大々的に売り出す構えを見せた。

 そして、本職の野球でも、イ・デウンは最速155キロの速球を武器に旋風を起こす。3月29日の開幕第3戦に先発し、6回1/3を4失点で来日初勝利を挙げると、5月末までの2ヵ月で6勝を挙げた。

 その一方で、四球で自滅する欠点から防御率5点台と安定感を欠いたが、6月にチーム事情から中継ぎに回ると、同28日のオリックス戦で1対1の7回1死二塁のピンチに先発・大嶺祐太をリリーフ。後続2人をピシャリと抑え、直後、味方が勝ち越したことから。チームトップの7勝目を手にした。「抑えられて、さらに勝ち星も付いてうれしい」。翌日の日刊スポーツは「Mの勝ちメン デウン様」の大見出しで報じている。

 同年は37試合に登板し、9勝9敗4ホールド、防御率3.84を記録したが、翌16年は登板わずか3試合にとどまり、シーズン中の10月4日、兵役のため帰国した。

 兵役を終えた18年、ドラフト1巡目指名でKTに入団し、4勝17セーブを記録。21年限りで現役を引退した。(文・久保田龍雄)