古賀茂明氏

 5月1日、水俣病の患者らが作る8団体と伊藤信太郎環境相の懇談が催された。その際、団体側代表者らの発言の途中で、突然マイクの音が切られたり、マイクが取り上げられたりという信じられないようなことが起きた。

 話している患者らは、水俣病で長い間筆舌に尽くせない苦しみを強いられ、また、家族を失ったりしたとても気の毒な方々だ。普通の人間なら、その話を聞けば、深い悲しみや同情の念を禁じえない。途中で言葉を遮るなど、血の通った人間にはできないことだ。

 問題は司会の官僚だけではない。その場にいて何もしなかった伊藤環境相も万死に値する。官僚も官僚なら大臣も大臣。一体全体どうしてこういう絶望的な状況が生じるのか。

 その答えを探すために、そもそも、官僚、とりわけ、キャリア官僚と呼ばれるエリート層がどんな人たちなのかということから話を始めよう。

 筆者は30年以上官僚としての生活を経験した。「官僚とはどういう人たちなのか」と聞かれると、それまでの経験から「役人になる時にはみな青雲の志を持っているが、さまざまなしがらみで変わっていき、最後は国民のためでなく組織のために仕事をするようになる」と、官僚をワンパターンにくくって答えてきた。しかし、退官後2年ほど客観的に彼らを観察していると、必ずしもそれは正しくないと気づいた。当たり前のことだが、官僚にも、元々いろいろな人がいるということだ。

 その後、官僚を3つのタイプに分類する仮説を立ててみた。この分類だけが正しいと言うつもりは全くないが、今回のニュースをきっかけに、官僚の在り方を議論する際の参考になると思うので紹介しておきたい。

 分類に当たっては、以下の4項目について、それぞれの類型の特色を整理した。国家公務員だけでなく、地方公務員にも当てはまる。

(1) 官僚になる動機

(2) 求める報酬

(3) 国民、市民からの要望に対する態度

(4) 現在の待遇に対する思い

である。その上で、4要素で特色づけた3つの官僚の類型を、

A. 消防士型

B. 中央エリート官僚型

C. 凡人型

 と名づけた。

 それぞれの特色を挙げてみよう。

謝罪の方針を説明する伊藤信太郎環境相(2024年5月)

A. 消防士型(消防士に限るわけではない。デスクワークをしている官僚も同じだ)

(1) 市民を守ることで社会に貢献したいから公務員になる。カネや権力や権威のためではない。

(2) 普通に生活できれば、それ以上特別な報酬はいらない。自分の仕事に対して「ありがとう」と感謝の気持ちを表してもらえることが一番の喜びであり誇りである。

(3) 市民の要望に対しては、何とか応えようとする。今の仕組みで対応できないから無理ですとは言わない。予算、法律、条例などを変えてでも実現しようと努力し、上司に対しても直言する。

(4) 待遇に対してあまり頓着せず、多くは望まない。

B. 中央エリート官僚型(財務省や経済産業省の官僚などに多い)

(1) 自分が一番であることを証明したいので、一番難しいと言われる官僚になる。財務官僚なら最高だ。小学校から高校まで成績優秀で東大法学部を目指し、その延長で、官僚になって次官を目指すという感覚だ。

(2) 自分が一番であること、他の人より優秀だという証しとして、もっとも手っ取り早いのが、ちやほやされることである。給料はそんなに高くなくても良い。東大の友達には外資系のコンサルティング会社に行く人もたくさんいて、彼らの方がずっと給料は高いが、そういうものを求めているわけではない。大きな権限を持ち、みんなから頭を下げられるような地位にいることの方がはるかに大事である。

(3) 市民からの要望があると、「くだらないことを要求してくるなあ」と迷惑がる。「日本で一番優秀な俺たち」がいろいろ考えて、良かれと思って「やってやってる(・・・・)のに」、バカな庶民にはそれがわからない。あいつらはバカだから、説明しても無駄だという感覚。市民の側が強く要求すると、「たかりだ」と逆切れする。

(4) 日本一優秀な自分たちが夜中まで働いているのに、待遇は全く見合っていないと考える。すぐに世間からバッシングを受けるし、できの悪い政治家の尻拭いをさせられるという被害者意識も強い。退職後においしい生活が待っているから何とか釣り合っている、だから天下りは何が何でも守るのが正義にかなう。天下り廃止なんて、バカな庶民と一部の左翼マスコミが考えるたわ言だ。天下りをなくせば、俺たちのような立派な人間が官僚にならなくなって、この国は滅亡するぞ!という論理になる。

C.  凡人型

(1) 生涯安定した生活を得るためには公務員が一番だと考えて官僚になる。犯罪でも犯さない限りクビにはならないし、毎年、着実に昇給し、少しずつ出世できる。退職後も70歳くらいまでは天下りと「わたり」で食いっぱぐれることはないという安心感を求めて官僚になる。

(2) そこそこの給料と退職後の安定した生活保障が最大の報酬である。

(3) 難しいことを言われると逃げる。失敗したら✖がつくので、とにかく余計なことにはかかわらない。担当課だと思って話を聞いてもらうと、一通り話したところで、「うちでは対応できないので、他の課を紹介します」と言われてたらい回しされるというのは、このタイプの官僚に当たった場合だ。もちろん、市民の要請に応えるために、規則を変えて対応しようなどという「危険な」ことは絶対に考えない。

(4) 現在の待遇については、できれば、もう少し給料を上げて欲しいと考えるが、それを声高に叫ぶことはない。ただし、天下りがなくなるなんて絶対に認められない、何のために官僚になったのかわからなくなるじゃないかと考える。

 この3分類を参考にしながら、今回の環境省の官僚の行動を見てみよう。

 患者の意見表明を冷たく中断させた行為や、批判を受けても、「不手際でした」と見え透いた嘘で平然とごまかそうとし、そそくさと帰り支度をしながら受け答えをする様子を見ると、「お前たちがうるさく言うから聞いてやってるのにつけ上がりやがって」「こっちはもっと大事な仕事があって忙しいんだ」と思っているかのように見える。

 「中央エリート官僚型」の典型と言っても良いだろう。

 彼は、慶應大学医学部卒らしい。厚生労働省から環境省に出向した医系技官で、厚労省の典型的エリート官僚である。医者になれば、収入は厚労省の官僚でいるよりは高いだろうし、医師免許があるから生涯食いっぱぐれることはない。凡人型で、官僚になる必要は全くない人だ。

 もちろん、彼が消防士型であったなら、自身の判断で、帰りの新幹線の時間を遅らせることを大臣に進言し、発言時間を延ばしていただろう。 

 日本の官僚がみな消防士型であれば、日本は確実に素晴らしい国になるはずだ。ところが、実際には、消防士型よりも中央エリート官僚型の方が多く、中央エリート官僚型よりも凡人型の方が多いというのが私の実感だ。

 消防士型はもちろんだが、中央エリート官僚型の官僚の中にも、大臣や総理に直言する勇気を持つ者もかつてはいたのだが、安倍晋三政権の時代に、国民のためであっても、官邸の意向と違う政策を提案しようものなら、左遷必至という状況だったこともあり、そういう官僚はほとんどいなくなった。消防士型に限れば、ほぼ絶滅してしまったと言って良いだろう。

 そして、凡人型も変質している。それは、何もしないことでリスクを避けようとする行動パターンが通用しなくなったからだ。積極的に官邸や内閣の意向に沿う行動をしないと、気が利かない奴だとなり、出世ができなくなるリスクが出てきたので、凡人型でも、官邸やその意向を受けた大臣に擦り寄る行動を「積極的に」とる官僚が増えている。

 このように考えると、官僚に多くを期待することはできないのではないかという暗い気持ちになるが、官僚がここまで政治に対してひれ伏しているのなら、政治家、とりわけ与党政治家が、国民のために動けと官僚に指示してくれれば、一気に良い方向に変わる可能性があるということも意味している。

 ところが、今回の件では、環境相もまた、官僚と同じで、患者たちに真摯に向き合う気など全くなかったように見える。あとで謝罪し、さらに環境省内部の水俣病対応の体制を強化するなどということを発表したが、これもまたかなりピントがずれている。

 先日、自民党の重鎮議員と話した時、彼は、「環境相がやるべきことは、役所内部のことではない。水俣病の患者の認定をさらに広げるために、関係の役所である厚労省や法務省や財務省の各大臣と直談判して、もっと早く広範囲の患者を認定できるよう話をまとめるのが政治家の役割だ。それができずに、あのような失態を演じたのだから、即刻辞職すべきだった」と切って捨てた。

 「自民党はどうなっちゃったんでしょうね」と問いかけると、

 「古賀さん、自民党はもうどうにもなりません。物事を真面目に考える人がいなくなった。考えるのは、目先のこと、自分のこと、カネのこと。それだけだ。このままだと、日本は大変なことになりますよ」

 大変な予言ではないか。

 堕落した官僚はもちろん、官僚の行いを正すべき政府自民党の政治家にも期待できないとすれば、我々国民は、呆れ、嘆き、怒る以外にどうすれば良いのだろうか。

 だが実は、道はある。

 そして、国民はもう気づいている。

 そう。

 その答えは、「政権交代」だ。