巨人時代の吉原孝介

 同一リーグ内の捕手の移籍は、全投手の情報が流出することから“ヤバい”とよく言われるが、過去にはFA移籍も含めて、捕手が同一リーグのチームに移籍した例も少なくない。

 ライバルチームからの捕手引き抜きが優勝につながったのが、1982年の西武だ。

 同年、広岡達朗新監督を迎え、創立4年目の初Vを狙った西武は、南海の正捕手・黒田正宏を2対2の交換トレードで獲得した。

 本田技研時代の70年のドラフトで南海に6位指名された黒田は、野村克也監督から「自分はもう老いている。君にバトンタッチしたい」と口説かれて入団したが、監督が4番で正捕手という状況が7年も続き、出番はほとんどなかった。

 ところが、「来年からは兼任でバッテリーコーチや」と言い渡された77年に、野村監督が解任され、運命が大きく変わる。30歳になった翌78年、苦節8年目で正捕手の座を掴み、同年は自己最多の117試合に出場した。だが、81年は若手の香川伸行や吉田博之の台頭もあり、出番が減っていた。

 一方、当時の西武は、正捕手・大石友好が“不動”と呼べるほど盤石ではなく、練習生を経てドラフト1位で入団した伊東勤も経験不足とあって、経験豊かなベテラン捕手を必要としていた。

 そして、黒田獲得は、前年、西武が南海に7勝16敗3分と大きく負け越していたことも、理由のひとつだった。“天敵”チームの司令塔を獲得すれば、捕手陣の充実化に加え、南海に対する苦手意識も払拭できる。まさに一石二鳥だった。

 82年、黒田は大石と併用で70試合に出場。チームも南海戦で16勝9敗1分と大きく勝ち越し、悲願の初優勝を実現した。

 前出の黒田同様、同一リーグから捕手を獲得し、栄冠を手にしたのが、89年の巨人だ。

 王貞治前監督からバトンを受け、6年ぶりに復帰した藤田元司監督は、ライバル・江川卓の引退後、4勝3敗と振るわなかった西本聖を放出。中日と2対1のトレードで中尾孝義を獲得した。

 正捕手・山倉和博が故障続き、控えの有田修三も37歳という苦しい台所で、捕手の補強が急務となり、82年の中日優勝時に正捕手としてMVPに輝いた中尾に白羽の矢が立った形だ。

 前年の88年、中日は若手の中村武志が正捕手になり、中尾は打力を生かして外野手に転向していたが、藤田監督は「まだ捕手ができる」と見込んでいた。グアムキャンプでは、87年以降伸び悩んでいた斎藤雅樹の再生という重要なミッションも任せた。

 当時の斎藤はコントロールに自信がなく、死球や甘く入った球を打たれることを恐れて内角を攻めることができなかった。中尾は「キャッチャーが構えたところにいかないと打たれると思ってる?だいたいでいいんだよ。打たれたら俺が責任を持つから。構えたところの近辺でいい」(2023年9月23日付・スポーツニッポン「我が道」より)というところからスタートし、斎藤の能力を最大限に引き出すことに成功する。

 同年、斎藤はリーグ最多の21試合を完投し、自己最多の20勝で8年ぶり日本一奪回の立役者に。正捕手として投手陣をよくリードした中尾も7年ぶり2度目のベストナインに選ばれ、中日で20勝を挙げたトレードの交換相手・西本とともにカムバック賞を受賞。両チームともに大成功のトレードになった。

 シーズン中の緊急補強で、同一リーグの捕手同士のトレードとなったのが、99年5月16日に成立した巨人・吉原孝介と中日・光山英和の1対1の交換トレードだ。

 同年の巨人は開幕後、顔面死球を受けて入院した正捕手の村田真一に加え、清原和博、広沢克実も相次いで故障離脱。これらの穴を埋めるため、村田真が復帰する5月下旬まで代役を務められるベテラン捕手で、右の代打にも起用できる光山がリストアップされた。

 一方、中日・星野仙一監督も、強肩が売りながら、出番が減っている吉原を指名し、くしくも捕手同士のトレードになった。

 近鉄時代に正捕手として野茂英雄とバッテリーを組み、90年には12本塁打を記録した光山は「(近鉄時代のチームメイト)石井(浩郎)さんとやれるのは心強いです。ここ何年も結果を出していないので、精一杯頑張りたいです」と決意を新たにした。

 その石井は、光山がチームに合流した5月18日のヤクルト戦で、5回1死、パーフェクト継続中だった石井一久から貴重な先制ソロを放ち、「オレも頑張っているところを見せたかった。この一発は“光山ホームラン”でしょう」とコメントした。

 そして、翌19日のヤクルト戦、近鉄時代以来3年ぶりのスタメンマスクで出場した光山は1打席目から3打席連続安打を放ち、これまた3年ぶりの猛打賞を記録。試合は延長13回の末、サヨナラ負けも、長嶋茂雄監督は「光山は大活躍。いいですよ」と目を細めた。

 だが、その後は球団野手ワーストの43打席連続無安打を記録するなど、精彩を欠き、翌00年は村田真、杉山直輝、村田善則の捕手3人体制からはみ出る形で、1軍出場の機会のないままオフに戦力外通告。その後、ロッテと横浜でプレーした。

 一方、吉原も同年は中日でわずか7試合出場にとどまり、01年に巨人時代にチームメイトだった柳沢裕一との交換トレードでオリックスへ。どちらも新天地で花を咲かせることができなかった。(文・久保田龍雄)