1993年から2006年まで14年間にわたって導入されていたドラフトの逆指名制度(01年から自由獲得枠、05年から希望枠)。巨人はこの時期に高橋由伸、上原浩治、阿部慎之助、内海哲也ら2000年代に黄金時代を築いた大物選手を毎年のように獲得しているが、その陰で、不発に終わった逆指名選手も少なくない。

 まず名前が挙がるのが、逆指名制度がスタートした93年の1位・三野勝大(東北福祉大)だ。

 同年の巨人は当初、小久保裕紀(青学大−ダイエー)、河原隆一(神奈川大−横浜)の両獲りを狙ったが、いずれも争奪戦で敗れた。

 思わぬ苦戦を強いられた巨人はその後、広島、近鉄が先行していた三野獲りに参戦。逆転で1位の逆指名を取りつけた。

 だが、東北福祉大のもう一人の右腕・関根裕之(日本ハム1位)がある程度完成されていた即戦力だったのに対し、球威はあっても制球に難のある三野は、育成に時間がかかるとみられていた。

 はたして、入団から3年以上も2軍暮らしが続いた“未完の大器”は、97年10月8日のヤクルト戦でようやく1軍初登板をはたす。

 0対1の6回から3番手で登板した三野は、先頭の池山隆寛を三振、テータムを遊ゴロ、稲葉篤紀を三振と1回無安打無失点の2奪三振。最高の形でデビューを飾った26歳は「緊張した。池山さんを三振に打ち取って落ち着きました。三振は2つともスライダー。縦に落ちるようずっと練習していました」と満ち足りた表情を見せた。

 シーズン最終戦での好投は翌年の飛躍につながると思われたが、これが巨人における最初で最後の登板になった。

 98年以降はフォーム改造の失敗や故障などで低迷し、99年シーズン途中、金銭トレードで横浜へ。00年にリリーフで4試合に登板も、5回5失点と結果を出せず、01年限りで引退した。

 三野が入団した当時の巨人は、桑田真澄、斎藤雅樹、槙原寛己の三本柱をはじめ、リーグ一の投手陣を誇り、この中に割って入るのは至難の業だった。もし投手力の弱いチームに入団して、実戦で使われながら経験を積んでいけば、野球人生も違ったものになっていたかもしれない。

 即戦力右腕と期待されながら、実質1年で終わったのが、94年の2位・織田淳哉だ。

 早大時代は4年間で74試合に登板し、93年秋の優勝に貢献するなど、通算33勝、396奪三振を記録。4年時には主将も務め、通算9本塁打の強打者でもあった。

 入団1年目、95年7月12日のヤクルト戦で6回に4番手として1軍デビュー。先頭の飯田哲也から三振を奪ったあと、連打を許し、1死一、二塁のピンチを招いたが、落ち着いて後続を断ち、無失点。「緊張はあまりしませんでした」と強心臓ぶりをアピールした。

 その後もフォークを武器に6試合連続リリーフで無失点に抑え、「織田は四球がないから安心だよ」と堀内恒夫投手コーチを喜ばせた。西山一宇とともに“新・勝利の方程式”ともてはやされたのも、この頃だ。

 だが、7月31日のヤクルト戦でオマリーに2ランを被弾し、初失点を記録すると、しだいにリリーフ失敗も目につくようになり、最終的に16試合0勝0敗、防御率4.57。アーム式の力投型だけに、疲れて打ち込まれることも多かった。

 翌96年シーズン中、手薄な捕手陣をカバーするため、長嶋茂雄監督の発案で球界では異例の捕手にコンバートされたが、守備面で結果を出せず、一塁へ再コンバート。さらに98年シーズン中に再び投手に戻ったものの、1軍登板の機会のないまま99年限りでユニホームを脱いだ。

 打者としての評価も高かったことが結果的に災いし、どっちつかずで終わった感もある。

 これまた“未完の大器”で終わったのが、96年の2位・小野仁だ。

 秋田経法大付3年の94年、高校生で史上初の世界選手権日本代表に選ばれた17歳の左腕は、150キロ台の速球を武器に、“世界最強”キューバの主砲2人を連続3球三振に切って取り、ドラフトの超目玉と注目された。

 だが、高校から即プロ入りの道を選ばず、96年開催のアトランタ五輪出場のためのアマチュア凍結選手として日本石油に入社。五輪出場後、巨人に逆指名入団した。

 97年7月16日のヤクルト戦で1軍デビューも、リリーフ7試合で防御率11.74と打ち込まれた。制球に難があるのに、際どいコースを狙ってカウントを悪くして、苦しくなって真ん中に投げて打たれるの繰り返しだった。

 ところが、8月30日の広島戦でプロ初先発を任せられると、低めにボールを集める別人のような快投で、4回まで被安打1の無失点。7回に先頭の金本知憲に一発を浴びたところで交代したが、6回4安打3失点でうれしいプロ初勝利を挙げた。球団の新人では、66年の堀内恒夫以来の初先発初勝利。お立ち台に上がった小野は「両親にはずっと迷惑をかけてましたから……」と涙ぐんだ。

 長嶋監督も「ローテーションの一角を担えるものを持っている」と期待したが、同年は1勝止まり。翌98年もイースタンで1試合20奪三振の新記録を達成したが、1軍では2勝7敗と大きく負け越した。

 その後も2軍では最多勝や最優秀防御率を記録したのに、1軍の殻を打ち破れず、フォームをサイドに変えても結果は出なかった。

 そして、02年オフに近鉄移籍も、最後はイップスに苦しみ、1年で戦力外になった。

 このほか、99年の2位・谷浩弥(田村コピー)、00年の2位・上野裕平(立大)、04年の2巡目・三木均(八戸大)も即戦力と期待されながら、花を咲かせられずに終わっている。(文・久保田龍雄)

●プロフィール
久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。