ミャンマー国軍がクーデターを起こしてから、12月1日で10カ月が経過した。国軍が首都ネピドーに設置した特別法廷は6日、民主化指導者アウンサンスーチー氏に対し、社会不安をあおった罪などで禁錮4年の判決を言い渡した(その後、禁錮2年に減刑)。いまも軍に反発する市民の逮捕は続き、デモでの死傷者は増え続けている。タイと国境を接する東部カイン(カレン)州の避難民キャンプには、2006年より国軍の弾圧から逃れてきた2000人以上が暮らしている。キャンプを訪れると、長渕剛のヒット曲「乾杯」を歌う避難民の姿があった。その思いとは― 。

「国軍が怖いので、村には帰れません」

 2児の母であるカレン族のノイポさん(21)は、絞り出すように語った。

 06年、当時6歳だったノイポさんは国軍による村の襲撃から逃れ、人生の大半を避難民キャンプで暮らしている。

キャンプの暮らしで必要な食料や医療物資は、支援団体などがタイ側から送ってくるが、「どんどん少なくなっている」。幼い子供2人は彼女の周りではしゃぎまわるが、ノイポさんは力なく見つめるだけだ。

 ■空爆で死傷者、3000人がタイに避難

 少数民族カレンの武装勢力が支配する地域では06年、国軍との戦闘が激化。非政府組織(NGO)のメコンウォッチによると、国軍は殺人や拷問、村の焼き討ちなどを行った。

 攻撃の目的は支配地域の拡大、反対勢力の抑圧、木材など天然資源の権益取得などだ。当時1万5000人以上が家を追われ、ジャングルに逃げ込んだとされる。

  以降、国軍とカレン族の武装勢力による戦闘は断続的に発生していたが、今年2月の軍事クーデター後、国軍による弾圧は激化した。

 カレン族組織の連合体、カレン平和支援ネットワーク(KPSN)によると、3〜4月には軍による空爆で複数の死傷者が発生し、約3,000人がタイ側に避難を余儀なくされた。

 ■支援足らず、届けるのも困難

 タイ側に避難できなかった人々は、国内に設置された避難民キャンプか、屋根もないジャングルで生き延びていくしか術がなかった。

 

 故郷の村は軍の監視下に置かれ、戻ればどのような仕打ちを受けるか分からない恐怖があるからだ。

 避難民キャンプに12年間暮らしているポーレカリラムさん(46)は、「ここにいるしか選択肢がない」と肩を落とす。医師が常駐していないため、基本的な医療も受けることは難しく、虫歯だらけの歯はボロボロだった。

 必要最低限の暮らしがままならない状況でも、避難民らは政府を頼ることができず、国際社会に支援を求めるしか方法がない。

 キャンプの責任者を務めるコドさん(48)は、「国軍には市民を殺すのをやめてほしい。国際社会からももっと訴えかけてほしい」と話す。

 

また、「食料や医療支援が足りていない」とし、さらなる支援の必要性を訴える。

 支援が送られてくるタイ側の都市は、川を越え、舗装されていない危険な山道などを3時間車で走らないとたどりつかない。これに加え、新型コロナの感染防止策のため、陸路での越境に制限がかけられていた時期もあった。支援を届けるのも容易ではない状況だ。

 ■平和的なデモ隊に軍車両突っ込む

 ミャンマーではカレン族だけでなく、複数の少数民族がこれまで国軍の弾圧を受けてきた。

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、国内避難民の数はクーデター以前、37万人だったが、クーデター以降は新たに22万3000人増えている。

 さらには、クーデター以降は民族に関わらず、軍に反抗する市民すべてへの弾圧が続いている。

 ミャンマーの市民団体「政治犯支援協会(AAPP)」によると、2月以降に国軍に拘束された人の数は、12月6日時点で1万727人に達した。国軍の武力行使で死亡した市民の数は1303人だった。

 最大都市ヤンゴンでは12月5日、軍事政権に抗議するデモ隊に軍の車両が突っ込み、治安部隊が発砲して5人が死亡する事件が起きた。デモ参加者は少なくとも15人が拘束された。

 ヤンゴンではクーデター直後のような大規模なデモは、軍の抑え込みにより行われなくなった。ただ若者たちは小規模で散発的に集まり、平和的なデモを繰り広げている。こうしたデモに対しても、軍の手は依然として緩まっていない。

 ミャンマーと「独自のパイプ」を強調する日本政府の対応はあいまいなままだ。日本は欧米と一線を画し、ミャンマーに経済制裁などの強硬手段はとっていない。新規の政府開発援助(ODA)を停止し、欧米とともに民主政治の復活を訴えているものの、民主派への接触が少ないとみられている。

 ミャンマー人からは日本に対し、「口だけの民主化支援ではなく、(経済制裁などの)強硬手段を取ってほしい」「民主派が設立した挙国一致政府(NUG)を正式な政府として認め、支援してほしい」といった声が相次いでいる。

■笹川氏のミャンマー訪問、批判的な見方も

 11月には、ミャンマー国民和解担当の日本政府代表を務める日本財団の笹川陽平会長がミャンマーを訪問し、軍評議会トップのミンアウンフライン最高司令官などと会談した。

 笹川氏は、国軍に拘束されていた現地メディアの米国人編集幹部の解放について、同司令官に直接働きかけたと明らかにした。実際、その後に米国人は解放された。

 一方でミャンマー人からは、「なぜミャンマー人ジャーナリストは助けてもらえないのか」との疑問の声も上がった。現地ではいまもなお多くのジャーナリストらが拘束され、拷問されたり殺害されたりしているからだ。

 軍の弾圧におびえる知人のミャンマー人ジャーナリストは、「国際社会は、私たちのことを忘れてしまったのか」と嘆く。

 ■乾杯は「友人を励ます歌」

避難民キャンプの住民らに取材を続けていると、どこからともなく聞き慣れた日本の曲が聞こえてきた。

 耳を澄ますと、長渕剛のヒット曲「乾杯」が、ビルマ語で弾き語りされていた。

 住民らによると、「乾杯」は現地の歌手がカバーして人気を博し、よく知られた日本の曲の1つとなっている。ビルマ語のカバー曲のタイトルは「慰め」だ。「フレンド」としても知られている。

  歌詞も原曲とは少し変わっている。

「友達よ、きみの幸せと成功を祈る。時に直面するであろう苦しみも乗り越えてくれ。悲しい涙は川に流せば、やがて海にたどりつく。勇気を出し、未来に向かって歩みを続けよう」

 ミャンマーでなぜこの曲が好まれているのか。

 住民に聞いてみると、「辛いことがあった友人を励ますためだ」と話す。先行きの見えない暮らしの中で、同じ境遇にある仲間同士、この歌を歌いながら互いを支え合っているという。

 キャンプでの取材が終わり、真っ暗なトンネルに彼らを置き去りにしていくような後味の悪さを噛みしめていると、キャンプの責任者を務めるコドさんが最後、歯のない笑顔でこう言った。

「またここに来てほしい。そして、私たちのことをどうか忘れないで」

 (東南アジア専門ジャーナリスト・泰梨沙子)

◆はた・りさこ 2015〜21年、アジアの経済情報を配信する共同通信グループ系メディアで記者を務める。タイ駐在5年を経て、21年10月に独立。フリージャーナリストとしてタイ、ミャンマー、カンボジアの政治・経済、人道問題について執筆している。