「もう、戦場ジャーナリストからはきれいさっぱり足を洗いました」。こう語るのは戦場ジャーナリストとして活動してきた桜木武史さん(44)。2016年には「山本美香記念国際ジャーナリスト賞」を受賞し、これまで3冊の著書も出版した桜木さんだが、40代という若さで“リタイア”を決意したのはなぜか。桜木さんが語ったのは、戦争ジャーナリストを取り巻く厳しい現実だった。

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 大学卒業後、桜木さんはおよそ20年にわたって、戦場ジャーナリストとして活動してきた。フリージャーナリストという立場で、損得勘定を抜きにして紛争地の実態を取材し続けた。

「事前にテレビ局や出版社と組んで、戦場を訪れ、現地から中継などをするジャーナリストもいますが、私の場合は事前にメディアとは話をせずに、興味のある紛争地へ出かけていました。この記事を書いたら売れる、売れないなんていうことは、一切考慮しませんでした。だから金銭的にはずっと赤字です」

 桜木さんがメディアに“営業”をするのは戦地から帰ってから。取材した内容を売り込むために主要な雑誌の出版社に電話をかけまくる。だが、現実は厳しかった。

「10社に売り込みの電話をかけて、ネタを買ってくれるのはせいぜい1〜2社くらい。20年前であれば日本人が知らないマイナーな紛争地へ行っても、写真を買ってくれたり、記事を書かせてくれたりしましたが、今では出版不況が深刻化して、買い取りのハードルが上がっています。だから、戦場ジャーナリストはカメラをビデオに持ち替えた人も多くいます。テレビ局であれば、まだ高く買い取ってくれますからね」

 だが、戦地に行くだけでも多額の費用がかかる。桜木さんは取材費を稼ぐために、日本でトラックの運転手として働き、ある程度のお金がたまると紛争地に行って取材をするという生活を続けてきた。

「ずっと同じ運送会社で働いていました。これまで14〜15回は辞めて、その後にまた復帰するという働き方を続けてきました。すごく太っ腹な運送会社で、戦場から戻って、『明日からまた復帰させてください』と言うと、いつも迎え入れてくれました」

 当然ながら、紛争地での取材は常に命の危険と隣り合わせだ。2005年11月、桜木さんはカシミールでインド軍とイスラム武装勢力との戦闘を取材中に、右下顎を撃たれて重傷を負った。

「もうろうとした意識の中で、傷口を押さえると血がドクドクと湧き出て、首筋を流れていくのがわかりました。右下顎の骨は吹っ飛んでしまったので、3回手術をして、自分の肩の骨で顎を再生しました。今でも右の歯は入れ歯です。幸いなことに、味覚の神経はぎりぎりセーフで残っていました」

 当時、桜木さんが血まみれになってよろめきながら歩く姿を地元紙のカメラマンが撮り、1面トップで報じられたという。

 ここまで危険な目に遭っても、傷が治ればまた紛争地へ向かっていった。平和な日本を抜け出し、なぜ戦場を訪れるのか。その理由をたずねると、桜木さんはこう答えた。

「戦争を自分の目で見て報じたいという思いが一番です。戦争というのはそこで暮らす人々から『日常』を奪うということ。水道の水が出ない、電気がない、食料がないという状況になり、日常生活を送るのも困難な状況がある。国際社会で忘れられ、不当な暴力で押しつぶされている“声なき声”を拾い集めて伝えたいというのが動機でした。本当は日本の大手メディアの記者も、現地に行きたいんだと思います。実際にテレビ局の記者がこっそりと取材に来ているのは見かけました。でも実際に現地でよく会うのは、フリーのジャーナリストばかり。テレビ局はコンプライアンスが厳しく、本当に危険な地帯の取材はフリー任せになっているのが現状です」

 大手メディアは危険地帯の取材をフリー任せにしているのに、当事者のフリージャーナリストたちは戦争取材では生活が維持できない。それゆえ、桜木さんは戦場ジャーナリストからの“リタイア”を決断した。だが、今はロシアがウクライナを侵攻中で、ウクライナ市民たちが不当な暴力にさらされている。ウクライナに取材に行きたい、という思いも残っているのだろうか。

「ウクライナにはたくさんの日本人ジャーナリストが行っています。その意味では、(戦争取材の)需要があるんです。マイナーな紛争地だと大手メディアからは『いらない』と言われますが、ウクライナなら採用される可能性は高いかもしれません。需要と供給のバランスですね。ただ、私としては、他の人が報じてくれるのであれば、別に私が行かなくてもいいかなという考えです。戦争取材はもうやり切ったという気持ちですし、これ以上はモチベーションが維持できないんです」

 昨年8月、桜木さんは住み慣れた東京都小平市のアパートを引き払い、岐阜県の飛騨高山にある実家に引っ越した。地元の友人が会社経営をしており、その会社で働かないかと誘ってくれたという。

 今冬、桜木さんの故郷では雪が30〜40センチ積もった。

「こっちは東京と比べてびっくりするくらい人が少ないですね。でも東京が恋しいとは全然思わない。友人の会社で一生働くつもりです。戦場では友達になった人たちが次々に撃たれて殺されました。自分もいつ死んでいてもおかしくない状況でした。紙一重のところで救われた自分の命を大切に、あとはのんびり過ごしたいですね」

 20年間命をかけてきた「戦場」を離れ、これからは、ささやかな「日常」を大切にして生きていく。

(AERA dot.編集部・上田耕司)