築150年の古民家で、
山間部に流れる静かな時間に身を浸す

大分県の北東の海へ突き出す国東(くにさき)半島。杵築市の山間部で風雅な香りを放つ「山香(やまが)」と呼ばれるエリアに〈山香文庫〉はあります。

桜越しに山香エリアの山々を見渡す
風光明媚な光景が広がる山香エリア。(写真提供:山香文庫)

民泊として、また農村地帯の民家に宿泊して土地の暮らしを体験できる「農村民泊」ができる場として、地域に開かれながらも親密な時間を過ごせる場所。築150年を超える古民家に暮らし、山香文庫を営む牧野史和さん&鯨井結理さんを訪ねました。

山香文庫の外観。縁側に鯨井結理さんが座っている
写真提供:山香文庫

9年前、地域おこし協力隊の一員として杵築市にやってきた牧野さん。農業振興担当の任に就き杵築で暮らすうちに、このまちとここに暮らす人への想いが大きくなり、2年目に入ったころには任期終了後の移住を決意していました。

移住のための家探しは、農業の発信のひとつのかたちとして農村民泊ができる場所探しでもありました。地域の人のつながりで知ったこの物件は、明治初期に建てられた木造の平屋です。10軒ほどの集落の1軒で、「15年ほど空き家になっていたにもかかわらず、集落の人たちが大切にメンテナンスしてくれていたので、大きな修繕をせずに住み始めることができました」(牧野さん)

インタビュー中の牧野史和さん
地域おこし協力隊を経て移住した牧野史和さん。

木の床や天井の一部と水回りに手を入れてここに住み、有機栽培や自然栽培に特化した茶園で働き始めた牧野さんのもとへ、2019年に鯨井さんが合流。ふたりがそろい、山香文庫がスタートしました。

民泊としての利用時は、2名1組を基本に最大4名まで宿泊可能。土間から畳に上がる玄関から、リビング、ダイニング、ライブラリー、キッチンとお手洗いまでが共有スペース。ツインベッドの客室とライブラリーは連続した空間になっています。

山香文庫のライブラリースペース
ゲストルームにつながるライブラリー。ソファ、椅子、小さなテーブルもあり、寛げます。
ベッドが2つ置かれたベッドルーム
快適に過ごせるよう、壁や床に手を入れたベッドルーム。

「私たちが日常を送る場所にお客様をそのまま迎えるような感覚です。朝食は基本プランについていて、夕食は希望される方に予約していただいてお出しするスタイル。お風呂は近くの温泉をご利用いただいています」(鯨井さん)

インタビュー中の鯨井結理さん
国内各地を旅し、山香に行き着いた鯨井結理さん。

提供する料理については「使う食材の同心円を小さく、ということは決めています。家庭菜園で収穫したもの、近隣に自生する植物を摘んだもの、山香でつくられたもの、かつ旬のものを中心にメニューを組み立ています」と、主に調理を担当する鯨井さん。

ある朝のメニューは、ほうじ茶で炊いた茶粥、自家製味噌を使った味噌汁に、和のおかずや自家製梅干しなどを数品添えて。野菜や平飼いの卵を使った和食が基本です。

とある日の朝食メニュー
写真提供:山香文庫

夜は、季節のポタージュ、ポーチドエッグにフライドポテト、鯨井さんが働いているパン屋のパンなど洋食寄りのメニュー。「茶ノベーゼ」と呼ぶ自家製ソースを使った料理が、朝、夜のいずれかに登場します。

季節のポタージュ、ポーチドエッグにフライドポテトが並ぶ夕食メニュー
写真提供:山香文庫

ウェルカムドリンクとしても、食前や食後にリビングで過ごす時間にも、牧野さんが働いている茶園のお茶や、植物療法を学ぶ鯨井さんが近隣で摘んだ野草を使って調合したハーブティーなど、丁寧に淹れられたお茶が供されます。玄関を入ったところでは山香文庫オリジナルのほうじ茶の茶葉も販売されていて、旅の土産としても人気です。

お茶を淹れる牧野さん
ゲストとの交流の時間のお供にも、丁寧に淹れたお茶を1杯。2杯。

部屋部屋に置かれた本の数は
4000を超えて増殖中

主に中学生を受け入れている農村民泊では、茶畑に出たり、ほうじ茶づくりをしたり、自生する植物を採ったり、湧き水を汲みに行ったり。牧野さんと鯨井さんが日々行う農作業の一部を一緒に体験することができます。

「大人の方で農業体験を希望される方はほとんどいらっしゃらないんです。ご希望があればもちろん、たとえばほうじ茶づくりだけでもご一緒することが可能ですが、どちらかというと日常から距離をおいて、ゆっくり散歩したり、本を読んだり、景観や空気を楽しみにいらっしゃる方が多いですね」(鯨井さん)

談笑中の鯨井さんと牧野さん

1泊、2泊、3泊と連泊して、そのほとんどを室内で過ごすゲストがいるというのも納得の、ゆったり静かな時間が流れる場所。そんな時間のお供になるのが数千冊もの本です。

ベッドルームにつながるライブラリーと呼ばれる部屋だけでなく、リビングにも、ダイニングにも、そこかしこに木箱が置かれ、日本の各地から近隣の小学校まで、さまざまなところから寄贈された本に、ふたりの蔵書が混じり合っています。

本を詰めたりんご箱が天井から吊り下げられている
本を詰めたりんご箱、茶箱などが部屋のあちこちに置かれています。

「民泊と同時に、地域の子どもたちのためのオープンスペースとして場所を開放したいという想いがあって。放課後に集まったり宿題を教え合ったりする空間になったらいいなと考えたら、じゃあ本がないと! となりました。本の寄贈を広く呼びかけたわけではないんですが、お会いしたことのない方からお手紙をいただいて蔵書を譲り受けたり、廃校になった学校の図書館から本がやってきたりして、いつの間にか4000を超える数になりました」(牧野さん)

絵本、児童文学、図鑑や全集、写真集。小説、エッセイ、ルポルタージュ、新書に、思想や評論、哲学の本。田中泯のサインが入った写真集のように存在感抜群の本もあれば、静かに佇む詩集や歌集もあります。

「私たちふたりが民俗学に興味があると知って、この地域にまつわる資料や論文を贈ってくださる方もいて、ますますこの土地に興味が湧くんです」(鯨井さん)

大分や国東についての本が並ぶコーナー
大分県や国東半島についての本も集まってきます。
田中泯さんのサイン入り写真集
牧野さんが大好きだという田中泯さんのサイン入り写真集。

おふたりのおすすめ本をうかがってみたところ、鯨井さんはレイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』を選んでくれました。実はこれ、本棚のあちこちに3冊あったという、鯨井さんの人生の愛読書。

レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』を手にする鯨井さん
環境問題にいち早く警鐘を鳴らしたことで知られるレイチェル・カーソンの遺作。「神秘さや不思議さに目を見はる感性」の大切さを教えてくれます。

「これまで10冊以上購入して、いろんな人に贈りました。この本に出合ったからいまここで暮らしているのかもしれない、そう思うほど私にとって大切な本です。大学の授業で出合い、自分の興味の芯にあるものに気づくきっかけにもなり、いまの活動を考えるうえでのベースにもなっています」(鯨井さん)

牧野さんが迷いに迷って選んだのは、西尾勝彦の詩集『言の森』と、大西文香の写真集『Echoing yours』。

西尾勝彦の詩集『言の森』と大西文香の写真集『Echoing yours』を手にした牧野さん

「『Echoing yours』は、写真家の大西さんが、フィルムカメラで撮影した光たっぷりの作品を集めた500部限定の写真集。山香町のグラフィックデザイン事務所〈山香デザイン室〉の小野友寛さんが手がけた美しい一冊です。本をつくっている間、大西さんも何度もここに遊びにきてくれました。『言の森』は、僕らふたりがいま一番会いたい人、詩人の西尾勝彦さんの詩集です。表題の詩だけでも読んで、味わってもらえたら」(牧野さん)

西尾勝彦の詩集『ふたりはひとり』が並ぶコーナー
ジャンルレスな本棚は眺めているだけでも楽しい。ふたりが愛読する西尾勝彦の詩集『ふたりはひとり』も。

新しい計画も楽しみな、
山香文庫のこれから

山口県で生まれ育ち、東京に進学して身体表象を学んでいた牧野さんが杵築市にやってきたのは、「都会生活の息苦しさとスーパーで売られている製品としての野菜への違和感から、卒業後は農業に関わって、農業について発信する仕事がしたいと考えたところからでした」(牧野さん)

竹ざるや竹かごがたくさん置かれた縁側
天気のいい日は何時間でも過ごせてしまうという縁側。庭先には季節ごとに鳥たちがやってきます。

「私は私で、生まれ育った埼玉からいつか移住したいという夢を持っていて、国内をあちこち旅してまわっていたんです。牧野くんとは共通の知人がいて出身大学も一緒。お互いフィルムカメラが趣味で、心と身体の関係に興味を持っている。知人の知人というくらいのつながりだったんですが、大分を案内してもらおうと、ある日連絡をとったんです」(鯨井さん)

当時、地域おこし協力隊だった牧野さんによる、観光案内ならぬ移住のためのようなツアーが功を奏し、地元の人しか行けない場所や会えない人を訪ねた鯨井さんも、この土地の魅力に心をつかまれました。

縁側に吊るされた干し柿
庭で採れた柿は縁側で干し柿に。

現在は、山香文庫で週に数組のゲストを受け入れながら、国東市の茶園で有機栽培のお茶をつくり、中津市と別府市のスタジオでダンスを教えたり、ダンサーとしてイベントに出演もしている牧野さん。もともとヨガインストラクターをしていた鯨井さんは、遠隔で仕事を続けながら別府市でヨガクラスを受け持ち、週末は地元のパン屋さんで働いています。

「ここ数年は植物療法を学んでいて、資格も取得しました。イベントに出店してハーブティーをブレンドしたり、その人のための香りをつくったり。いずれは山香文庫での時間を家に連れて帰ってもらえるような、セルフケアのワークショップなどもできたらいいなと考えています」(鯨井さん)

スプーンでハーブを調合中
ハーブティーを調合する鯨井さん。
リビングに並ぶ急須や湯のみ茶碗
リビングに並ぶお茶にまつわるアイテム。亀田大介さん、文さん夫妻など、地元の作家の器も並びます。

「山香という文字を移動させたい」と語るのは牧野さん。「この場所に来てもらうだけじゃなくて、オリジナルのお茶をいろんな場所で販売したり、山香文庫という場所をまちに構えてみるのもおもしろそう。僕らが撮った写真や、ほうじ茶で染めた作品を展示する機会も増やしていきたいですね」(牧野さん)

お茶染めの紙を何枚も重ねてステッチを施したコラージュ作品
お茶で染めた紙にステッチを施した牧野さんの作品。

江戸時代に城下町として栄えた杵築市。近隣の国東市や豊後高田市には1000年を超える歴史のある「修正鬼会(しゅじょうおにえ)」や「ケベス祭」などの珍しい祭りも残っています。日本最古の石造沈下橋とされる「龍頭橋(りゅうずばし)」、桜の名所をはじめ、豊かな自然に恵まれ観光も楽しめますが、名所を巡るだけでは物足りない、自然に近しく暮らす人の生活に触れたいという人に、山香文庫をおすすめします。

テーブルに向き合って座り本について話す鯨井さんと牧野さん
牧野史和さんと鯨井結理さん
Profile 牧野史和

1989年山口県生まれ。茶園で紅茶の生産、販売に従事する。ダンサー、ダンスインストラクターとしても活動。

Profile 鯨井結理

1987年埼玉県生まれ。植物療法士の資格を持ち、〈山香文庫〉ではハーブの調合なども。ヨガインストラクターとしての活動も継続中。

Information
山香文庫
address:大分県杵築市山香町大字広瀬899
access:JR中山香駅から車で約10分、JR杵築駅から車で約10分。
料金:1泊朝食付き7150円。夕食は1名1980円。11〜3月の厳冬期は別途暖房費として1泊ごとに1組800円。予約や問い合わせはInstagram DMで。
Instagram:@yamagabunko

*価格はすべて税込です。

credit text:鳥澤光 photo:ただ(ゆかい)