2016年の熊本震災から6年。一昨年には熊本城の天守閣が復旧し、一般公開も始まった。実は熊本県内のゴルフ場にも“復興のシンボル”が存在する。それが熊本最古のゴルフコース「くまもと阿蘇CC湯の谷コース」だ。そこには“奇跡”と言うべき名ホール回復までのストーリーがあった。

熊本最古のゴルフコース「くまもと阿蘇CC湯の谷コース」

 2022年8月。日本を代表する名ホールが復活した。

 くまもと阿蘇カントリークラブ湯の谷コース、3番パー5、通称「馬の背」ホールである。

馬の背の頂上に、奇跡の一本松は立ち続けた 写真:中村祐治
馬の背の頂上に、奇跡の一本松は立ち続けた 写真:中村祐治

 同ゴルフ場・湯の谷コースは、かつては牧草地であった阿蘇山のカルデラ内の原野に、湯の谷観光ホテルに進駐したアメリカ軍がゴルフプレーを始めたことをルーツとしている。1952年(昭27)ゴルフコース設計家の保田与天がその原野に9ホールのコースをデザインし、熊本県初のゴルフ場としてオープン。昨年創立70周年を迎えた。

 保田与天は、1889年(明治24年)和歌山県出身。与天は俳号で、本名は虎太郎。東京工業高等学校(現在の東京工業大学)で建築を学び、絵画、俳句、長唄、歌舞伎など多彩な趣味人で、ゴルフも宝塚ゴルフ倶楽部のクラブチャンピオンになるほどの腕前であったという。

 60歳を過ぎてからゴルフコース設計を始めた保田の手掛けたコースは多くはないが、その代表作としては芦屋カンツリー倶楽部、福岡カンツリー倶楽部和白コース、有馬カンツリー倶楽部、三重カンツリー倶楽部、浜松カントリークラブなどがある。自然の地形や借景をそのまま活用する設計コンセプトは、天が与えた自然を生かすという俳号からも伺い知ることができる。

阿蘇山のカルデラと内輪山の狭間のダイナミックな地形をそのまま生かしたコース 写真:中村祐治
阿蘇山のカルデラと内輪山の狭間のダイナミックな地形をそのまま生かしたコース 写真:中村祐治

 そんな保田を唯一認めたと言われているのが、日本一の名匠とうたわれる井上誠一。日本人のコース設計の歴史上、いまだ誰も越えることができていない唯一無二の存在が、保田与天がデザインした9ホールを18ホールのコースへと進化させ、さらに昇華させたのが現在の湯の谷コースの姿である。

 いわゆるコース紹介では、設計:保田与天、監修:井上誠一という表記を見受けるが、私は少し違和感を感じる。巨匠・井上が経験の浅い保田を助けたのではなく、天才・保田の才能にインスパイアされた井上が、時には嫉妬し、時には自らの経験を注入し、日本屈指の名コースを共に完成させた共同設計と表現する方がピッタリではないだろうか。

 阿蘇山の大噴火によって形成されたカルデラの内部に、火口から流れ出た溶岩とその上に堆積された火山灰。今もなお続く火山活動と、歴史上、度重なった大地震によって、盛り上がり引き裂かれた大地の躍動や痕跡が湯の谷コースの魅力となっている。

 うねりの連続で平坦な場所は1カ所もなく、ボールが止まるまでハラハラドキドキし、キックの行方を楽しむゴルフ本来の魅力にあふれるコースである。また、カルデラや内輪山を借景にした雄大な風景は、日本のどこにもなく、大地の息吹を感じながらプレーを楽しむことができる。

<2016年4月14日21時26分>未曽有の震災発生

熊本地震で無数の亀裂が入った「馬の背」の頂上付近(2016年4月26日、南阿蘇村) 写真:くまもと阿蘇カントリークラブ提供
熊本地震で無数の亀裂が入った「馬の背」の頂上付近(2016年4月26日、南阿蘇村) 写真:くまもと阿蘇カントリークラブ提供

 そんな大地の躍動が、コースを存続の危機に立たせた。

 2016年4月に発生した熊本地震により、湯の谷コースは壊滅的な被害を受けた。気象庁震度階級では最大の震度7を観測した(九州では初観測)熊本地震は、熊本市を震源として長崎、熊本、大分県に渡って多大な被害を与えた。

 南阿蘇地区では阿蘇大橋が崩落するなど激しい被害を受けた。コースは全域に渡って大規模な地割れや土砂の崩壊で、一時は復興は不可能と思われた。馬の背ホールのティーイングエリアは崩れ落ち、フェアウェイには大きな段差と一面に亀裂ができた。

 崩壊した阿蘇登山道が崩れ落ちた土砂がコース内に流れ込み、11番のグリーンと12番のティーは土砂に埋もれ、13番のグリーンは崩壊した。再開の見通しも立たないほどの惨状に、コースは荒れ放題になった。

 近隣のコースが続々と復活を果たす中、ようやく約1年半経過して補助金交付が決まり、被災2年目にしてやっとコース再建の動きが始まった。

2020年5月、馬の背はパー3ホールになって復活一本松の手前にグリーンが造られた 写真:くまもと阿蘇カントリークラブ提供
2020年5月、馬の背はパー3ホールになって復活一本松の手前にグリーンが造られた 写真:くまもと阿蘇カントリークラブ提供

 被災4年1カ月経過した20年5月、湯の谷コースは ついに再オープンに漕ぎ着けた。地元はもちろん日本全国から喜びの声が寄せられたが、一つだけ喪失感が拭えない箇所があった。湯の谷コースのシグネチャーホールである馬の背の変化である。

 幅約10メートル、高さ約15メートルにわたって直下の県道側に崩れ落ちた馬の背は、元の545ヤード・パー5ではなく、130ヤード・パー3に短縮を余儀なくされていた。再開を喜ぶ利用者の多くから馬の背の完全復活を望む声が寄せられ、クラブはその要望に応えることを決断。パー3で営業を続けながらパー5への復旧工事は進められた。

 そしてついに22年8月、馬の背は6年ぶりに震災前の姿を取り戻し、元のパー5となって完全復活を果たした。

完全に回復された“馬の背”が阿蘇山の稜線に溶け込む

完全復興された日本有数の名ホール“馬の背” 写真:中村祐治
完全復興された日本有数の名ホール“馬の背” 写真:中村祐治

 私は、10月某日コースを訪問した。

 復活した馬の背の丘の頂上に立つと、震災以前と変わらない阿蘇の雄大なパノラマが360度広がり、震災前からあった一本の松の木もそのままだった。バックティーから250ヤード地点にそびえるこの一本松は、70年前に保田が設計した原図にはない。コース関係者にその辺りの歴史を尋ねると、「おそらく井上が18ホールに改修した際に植えられたと思われる」ということだった。

 結果的に井上の植えたこの一本松が、名ホール・馬の背の大規模な損壊を防ぎ、復活に大きな役割を果たしたのだった。

 震災によって一本松の周囲の地割れは広範囲に広がったが、一本松の広く張り巡らされた根が土砂の崩壊を防ぎ、その位置が緯度・経度・座標値を示す三角点や標高を示す水準点の役割をした。震災やパー3化の工事によって失われた土砂や稜線の回復に大いに役立ったのだった。

 プレーの前日の夕方、ドローンを持参して復活した馬の背の写真撮影に行った。回復されたティグラウンドからドローンを空に放った。完全に復元された馬の背は背景の阿蘇山の稜線に溶け込み、その雄大さと美しさに言葉を失った。

 翌日のプレーでは、このホールが持つ素晴らしい戦略性に改めて感動した。丘の頂点に立つと、壮大なパノラマとたくましい一本松の姿があった。

 一本松は、馬の背ホールとそこでプレーするゴルファーたちを見守り続けている精神的ベンチマークとして、たくましく、うれしそうに太陽に向かって枝を伸ばしていた。

一本松は、ずっとそのままに… 写真:中村祐治
一本松は、ずっとそのままに… 写真:中村祐治

文・写真/中村祐治1960年生まれ、三重県出身。ゴルフトラベラーとして、最も権威あるゴルフ場ランキングである米ゴルフマガジン/ゴルフドットコムの「世界トップ100コース」のほとんどをプレー。国内のゴルフ場にも造詣が深く、ゴルフ場ランキングのパネリストを日本の名コースに案内する機会も多い。

中村祐治