その日、詩織は朝から落ち着かなかった。
休日だというのにいつもより1時間早く目を覚まし、洗濯物を済ませる。起きてきた夫の茂に朝食を用意する。掃除は特に念入りに。ほこりの1つだって落ちているのは許されない。戸棚の上、洗濯機のチューブの溝、冷蔵庫の下、お風呂場、シンク、階段の手すり。掃除機をかけ、雑巾で拭き、もう一度掃除機をかける。それでも気になる溝や角は綿棒で磨き上げる。
「別にそんなに躍起になって掃除しなくたっていいだろう」
「もういいから。そろそろ迎えの時間でしょう」
頼んでいた買い物から帰ってきたばかりの夫が詩織に言う。頼んでいた牛肉は黒毛和牛だったはずなのに、一番安いアメリカ産。キャベツではなくレタス。しょうがは当たり前のようにチューブ。玉ねぎは買い忘れる。いつもならそれでいい。けれど今日はそれではダメだった。
掃除が終わるととっくに昼になっている。夫を再び送り出し、詩織は急いでキッチンに立った。
牛肉のしぐれ煮。マダイのカルパッチョ。鶏肉の里芋の煮物。まつたけの炊き込みご飯。ナスとかぼちゃの揚げ浸し。
詩織は慣れない和食を、クックパッドを眺めながら作っていく。もちろんすしなどの出前を取ることも考えた。だがそんなことをすれば、初日の夜からくどくどとあの嫌みな愚痴を聞かなければいけないことは簡単に想像がついた。
時間はあっという間に過ぎていく。詩織は出来上がった料理をさらに盛り付け、並べていく。今日からは3人分だ。
車が家の前に止まったのが聞こえた。インターホンが鳴る。詩織は息をのむ。
義母とのジェネレーションギャップ
夫の父が病気で亡くなってからしばらくたったころ、詩織たち夫婦は夫の母である和子を家に呼んで一緒に住むことになった。
慣れ親しんだ土地を離れることを最初は嫌がっていた和子だったが、独りの寂しさが思いのほか堪えたのか、実家は土地ごと売ることに決め、茂の提案をしぶしぶと了承した。
もう80歳間近の親を心配する茂の気持ちは分かる。もし詩織の両親がまだ健在であれば、きっと同じことを思ったはずだ。
けれど詩織は、あまり和子が得意ではない。詩織からすれば古臭いとしか思えない価値観を、和子はあたかも不変の真理のように押し付けてくるからだ。
毎食、一汁三菜はちゃんと用意しているのか。
買ってきたおかずを食卓に並べるなんて怠けている。
家をきれいに保つのは妻として当然の仕事だ。
いつまでも外に出て働いて、うちの息子の稼ぎじゃ不十分だって言うのかい。
自分は365日休まずに家事育児に働いたものだ。
今の人は楽ができていいねぇ。
どれも時代遅れで的外れだと詩織は思う。専業主婦だった和子と違い、詩織は今も働いている。
隣の市の総合病院で看護師長として働く詩織は忙しい。今年で50歳になるがまだまだ現場では頼られていて、夜勤だって新人と同じようにこなしている。
もちろん家事を放り出しているわけではない。余裕があれば料理も掃除だってする。手が回らないときはスーパーのおかずや外食で済ませることや、ハウスキーパーにお願いすることもあるが、それは合理的で賢明な選択をしているだけだ。もちろん茂だって納得している。だから本当は和子にとやかく言われる筋合いなんてない。
もてなしの料理に文句をつける義母
「いらっしゃい。お義母(かあ)さん」
「ああ、詩織さん。どうも。今日は随分と家がきれいじゃないかい。また家政婦でも雇ったのかい?」
「いいえ。今日は休みだったので私が。それと、家政婦じゃなくて、ハウスキーパーさんですよ」
和子を玄関まで出迎えに行く。朝からあれだけ動き回った詩織はもうとっくにくたくただったが、初日から弱みを見せつけてはいけない。その一心で笑顔をつくった。
「母さん、早く上がって。これからは母さんの家でもあるんだから遠慮しないでさ」
茂に促されて和子は家に上がった。廊下を歩きながらしげしげと床や壁を眺めているのは、掃除が行き届いているかを確認しているからだった。
「豪勢なご飯だね。いつもこんなもの食べてるのかい」
「いえ、お義母(かあ)さんがいらっしゃるから今日は特別です。慣れない環境ですし、食べ慣れている和食がいいかと思って」
「へえ、珍しく気が利くじゃないかい」
リビングに通された和子が目を見開いたのは、詩織にも分かった。机に並ぶ料理の数々に驚いたのだろう。詩織は少しだけ胸が軽くなる。
もしかしたら和子ともうまくやっていけるのかもしれない。
軽くなった胸のうちに一瞬だけ抱いた希望は、すぐに
「味が濃いね。なんだい、このしぐれ煮は」
特に会話がある食卓ではなかったが、和子が発した一言は場を――主に詩織の心を凍り付かせるのに十分だった。
「こんなもの食べ続けたら病気になっちまうよ。もしや詩織さん、あたしをじわじわ殺してやろうって言うんじゃないだろうね」
「まさか」
「こっちの煮物は味がしないね。だめだめ。煮込む時間が足りないんだよ。付け焼き刃で料理してみたってね、日ごろの積み重ねが出るもんだよ。まったく」
「はは、慣れないことはやっぱりだめですね」
詩織は笑顔をつくった。横目に見た茂は話を聞いていなかったと言わんばかり、味がしないという煮物をつまんでいる。詩織は箸を持つ手に力を込めた。
●いよいよ始まった義母との同居生活。詩織はうまくやっていけるのでしょうか? 後編にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。