1877(明治10)年の西南戦争で鹿児島県指宿(いぶすき)市に派遣され、現地にとどまった警察官で旧会津士族の加藤忠平二等巡査に光が当たっている。住民から親しみと尊敬を込めて「巡査どん」と呼ばれた。時代の変遷とともに人々の記憶から薄れていたが昨年、指宿署が墓を探し当てた。署員や住民は指宿の治安維持に尽力した巡査どんの墓を清掃して整備し、地域の宝として守ると決意する。福島県会津地方の関係者は墓の発見を機に両地の交流の深まりを期待する。


 JR指宿枕崎線の薩摩今和泉駅から徒歩約10分の小高い丘の上に墓はある。日清・日露戦争や西南戦争の戦没者碑が近くにあるが、一番高い場所に建立されている。指宿市内を見渡せる場所で、当時の墓としては立派なしつらえという。加藤巡査は西南戦争と同じ1877年にコレラを患ったと伝わる。墓には「齢廿七年十一月」と彫られ、20代後半で亡くなったとみられる。「福嶋縣士族」とも刻まれている。

 指宿署によると、昨年10月、駐在所に手紙が届いた。「西南戦争で亡くなった巡査の墓が(市内)今和泉にあるという記事を見てきたが、探しきれなかった。知っていたら場所を教えてくれないか」との内容だった。署員が過去の資料などを調べたところ、加藤巡査が旧会津士族で、地元の言葉で尊敬を表す「どん」が付けられていたことが分かった。1974(昭和49)年に一度、墓が発見された。警視庁から派遣され治安警備に従事していたと記録されている。会津藩と薩摩藩は戊辰戦争で戦ったが、同署は「(会津出身の加藤巡査は)土地の人に親しまれ、地域に尽くしたようだ」とみている。

 資料を基に署員が現地に赴き、墓を見つけたが、草木が生い茂っていた。地域に尽くした巡査の墓を守ろうと署員や住民が清掃に取り組んだ。昨年12月には、約30人で周辺の木を伐採し、除草した。住民はさらに墓の入り口など6カ所に案内看板を設置。地域の人々が巡査どんの墓を参拝できるようにした。指宿署は住民と協力して今後も墓参りや清掃を継続する。福元博警務課長は「地域に愛された警察官の存在を大切にしていく」と誓う。

 会津の子孫にも発見の知らせが届いた。福島県会津若松市河東町に住む加藤誠さん(59)は3月に指宿署から連絡を受け、地域の取り組みを知った。加藤さん宅には祖父久雄さん(故人)が約50年前に指宿市を訪れ、墓参りした写真が残っている。「指宿の皆さんには感謝の気持ちでいっぱい。いつか現地を訪れたい」とほほ笑む。

 古里の関係者は指宿との交流が深まるのを期待する。会津歴史観光ガイド協会の石田明夫理事長(66)=会津若松市=は「会津士族の警察官の墓が九州で大切にされているという例は非常に珍しく、貴重だ」と語り、「これを契機に、双方の歴史的交流が広がってほしい」と話した。


※西南戦争 1873(明治6)年、征韓論を巡り西郷隆盛は下野し、鹿児島に戻った。西郷を慕って多くの若者が鹿児島に移り、西郷は私学校を設立して若者を教育した。だが、政府に不満を抱く私学校の生徒が1877年、鹿児島にあった政府の火薬庫を襲い、西南戦争に発展。戦場は熊本、宮崎などに広がった。旧会津藩士の佐川官兵衛、山川浩らが政府側として従軍した。