釜本邦茂の後継者

長い歴史を誇る日本代表や、28年目を迎えるJリーグでは、これまで数々の名選手がプレーしてきた。サッカーの流行が移り変われば、選手に求められる役割にも変化が生まれる。センターフォワードとして活躍した日本人選手が持つ技術に迫る本連載の第2回は、ウインガーからゴールゲッターへと変貌を遂げた三浦知良を取り上げる。(文:西部謙司)
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 偉大な釜本邦茂の後継者として何人かの選手が現れた。古河電工の奥寺康彦は両足利きだが左足のシュートが強烈で、スピードも抜群。しかし、日本人プロ1号としてドイツの1FCケルンに移籍してしまった。

 現在ではピンとこないが、当時は外国へ移籍すれば自動的に代表から遠ざかることを意味していた。ドイツではギュンター・ネッツァーがレアル・マドリードに移籍して西ドイツ代表から遠ざかった時期があり、ゲルト・ミュラーにバルセロナ移籍の噂が立ったときにメディアが騒いだのも代表離脱が濃厚だったからだ。

 イタリアでプレーしていたヘルムート・ハラーやカール=ハインツ・シュネリンガーの例もあるので代表に招集できないわけではないが、外国への移籍が代表への道を拓く現在とは逆だったのだ。

 奥寺が移籍した当時の日本代表の目標は五輪出場だったので、アマチュアではなくなった奥寺を招集する意味もなかった。

 原博実はヘディングで80年代にゴールを量産した。「アジアの核弾頭」というかなり物騒なニックネームがついていた。代表でのポジションはCFではなく左ウイングだったが、ウイングらしいプレーはほとんどなく、もっぱらゴール前へ入って木村和司や水沼貴史のクロスボールを狙っていた。

 ほかにも碓井博行が「釜本2世」として注目されたが、釜本に匹敵するゴールゲッターは全く違うタイプとして台頭する。奥寺や原がそうだったように、ゴールゲッターは左ウイングだった。ブラジル帰りの三浦知良である。

左ウイングだった三浦知良

 静岡学園に入学後8か月で中退、ブラジルへ渡った。ジュベントス、キンゼ・デ・ジャウーの育成チームを経てサントスとプロ契約。その後、5つのクラブを転々としながらサントスへ戻るころには「日本のガリンシャ」として評価を勝ち取っている。

 1990年に読売クラブと契約。すぐに日本代表に招集されアジア大会でプレーした。ポジションはブラジル時代と同じ左ウイング、キレ味抜群のドリブルは日本人離れしていたが、このころはまだゴールゲッターではない。ゴールを量産するのは2年ほど後だった。

 筆者は帰国当時のカズのプレーを見て、大成するかどうかは五分五分だと思っていた。ボールタッチは素晴らしく、ステップワークは見たことがないぐらい俊敏だったが、スピードがなかった。

 素早いけれども縦への速さがない。ウイングとしてどうなのかと。連続的なシザーズや引き技は驚異的だったものの、当時の対戦相手のDFは「ボールだけ見ていればいい」と話していた。振り切るスピードはないので距離をとって“曲芸”は眺めておけばいいというわけだ。

ゴールを量産した理由

 しかし、カズは突如として点を取り始めた。ポジションも左ウイングから2トップの1人になった。足下に吸い付くようなドリブルから、相手を一歩または半歩外してシュートを決めるようになっていた。

 抜き去るスピードはなくても外すまではいける。むしろ足下から離れすぎないドリブルは中央エリアで効いていた。体つきも逞しくなりシュートのパワーも増した。サイドに限定されるより、方向を限定されにくい中央で縦横に動くほうが向いていたのかもしれない。

 日本代表で最初にカズを起用した横山謙三監督は、後にこう回想していた。

「最初のシュートがDFに当たり、二度目も当たる。それでも同じようにシュートして、三度目には足の間を抜いて決めてしまう。そんな選手だった」

 日本人が「サッカーの下手な奴」を意味するブラジルで、苦労しながらのし上がっていった強さだろうか。野性的な集中力、諦めを知らない執念が多くのゴールを生み出した。FKやCKを左右どちらでも蹴る両足利き、俊敏さとステップワークでシュート体勢を作る上手さ、ポジショニングの良さもあったが、得点への並外れた意欲がなければあんなにゴールを量産することはなかったに違いない。

 そのメンタルの強さは、50歳を過ぎても現役選手であり続ける源泉でもあるのだろう。

(文:西部謙司)

【了】