GK:楢崎正剛

サッカーU-23日本代表は、「AFC U-23アジアカップカタール2024」を勝ち上がり、同大会で優勝するとともにパリオリンピック2024(パリ五輪)出場権を掴み取った。五輪本大会にはどのようなメンバーで臨むのだろうか。今回は日本の五輪サッカー史を彩る「最強」のオーバーエイジ(以下、OA)招集選手たちを紹介する。(スタッツはデータサイト『transfermarkt』を参照)
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生年月日:1976年4月15日
OA招集:シドニー五輪(2000年)ベスト8

 日本サッカー史に名を刻むレジェンドGK楢崎正剛は、オリンピックでも存在感を発揮した。

 フィリップ・トルシエ監督は、2000年に開催されたシドニー五輪のOA枠に楢崎を選出した。当時24歳だった楢崎は正GKとして同大会のグループリーグ全3試合に出場。安定したパフォーマンスで後方からチームを支えた。日本はロナウジーニョ擁するブラジルとの第3戦こそ0-1で敗れたものの、第1戦、第2戦で勝ち点6を積み上げ、32年ぶりの決勝トーナメント進出を決めている。
しかし、楢崎の真価が発揮されたのはここからだった。

 準々決勝のアメリカ戦で、守護神にまさかのアクシデントが起きる。得点力に定評があったアメリカに2-1とリードしていた中、76分に楢崎が負傷してしまうのだ。相手のロングパスにゴール前へ飛び出して対応しようとした楢崎と、頭で跳ね返そうとしたDF中澤佑二が衝突。前者は鼻から出血し、後者は頭部を痛めた。しかし、楢崎は黄色のGKユニフォームが血で赤く染まってもプレーを続け、アメリカの攻撃陣から文字通りゴールを死守した。

 最終的にこの試合はPK戦までもつれ込み、日本が惜敗。その後の検査で、楢崎が「眼窩底骨折」の大怪我を負いながらプレーを続行していたことが判明している。ベスト8で若きサムライたちの旅は終わってしまったが、楢崎の勝利への貪欲さと、大会への強い思い、プロフェッショナルとしてのプライドが垣間見えた大会となった。

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DF:吉田麻也
生年月日:1988年8月24日
OA招集:ロンドン五輪(2012年)ベスト4、東京五輪(2021年)ベスト4

 この男を差し置いて、歴代最強のオーバーエイジについて語ることはできない。

 長年欧州の第一線で戦ってきたDF吉田麻也は過去に3度、オリンピックに出場している。2008年に開催された北京五輪に、チーム最年少となる19歳でメンバー入り。チームを率いていた反町康治監督はOA枠を使わず、吉田にも1試合の出場機会が与えられたが、結果はグループリーグ敗退となった。

 その4年後、吉田はロンドン五輪で自身2度目の五輪出場を果たす。OA枠で招集され、主将に就任。自分より一つ下の選手たちの中で、類まれなキャプテンシーを発揮し守備の要となった。のちにA代表の主力となる選手を多く抱えたチームは、グループリーグを2勝1分無失点で首位通過することに成功している。3試合連続のクリーンシートに貢献した吉田は、準々決勝のエジプト代表戦でセットプレーから自らゴールも奪っている。粘り強く白星を積み上げていた日本だったが、44年ぶりの進出となった準決勝・メキシコ代表戦で自慢の守備が崩れ1-3の敗戦。その後、3位決定戦(韓国代表戦)にも敗れ、吉田にとって2度目の五輪はベスト4で終わった。

 捲土重来を期す3度目の機会は、自国開催となる東京五輪(2021年)で訪れる。

 32歳の吉田は、無観客開催となったこの大会に2度目のOA枠で出場。グループリーグから全試合に出場してチームを準決勝まで導いた。しかし、ワールドクラスのタレントを揃えるスペイン相手に惜敗すると、3位決定戦(メキシコ代表戦)にも敗北。9年前と同じ結末を迎えてしまった。

 最後までメダルを手に入れることは出来なかったが、吉田麻也は間違いなく「史上最強」のOAだ。経験豊富な実力者がいたからこそ、日本はメダルまであと1歩のところまで勝ち進むことが出来たと言えるだろう。

DF:森岡隆三
生年月日:1975年10月7日
OA招集:シドニー五輪(2000年)ベスト8

 センターバック3枚を同じ高さに並べ、ボールの状況に応じてディフェンスラインの上げ下げを細かく行う「フラットスリー」は、フィリップ・トルシエ監督率いる日本代表の象徴だ。そのフラットスリーで中心的な役割を担ったDF森岡隆三は、OAとしてオリンピックでも活躍を収めている。

 清水エスパルスで頭角を現した森岡は、1999年3月に日本代表デビューを果たす。当時トルシエ監督の下で代表の若返りを進めていたこともあって、同選手は徐々に出場機会を増やしてディフェンスリーダーへと成長した。
そんな森岡は、2000年に開催されたシドニー五輪のOAに招集される。A代表とU-23日本代表の監督を兼任していたトルシエ監督はMF三浦淳宏、GK楢崎正剛とともに同選手をOA枠に抜擢し、中田英寿や中村俊輔といった若き才能にあふれたU-23 のチームに組み込んだ。

 そして大会が始まると、森岡はフロントスリー戦術の軸として活躍。グループリーグ初戦の南アフリカ代表戦、第2戦のスロバキア代表戦に先発出場して卓越した守備技術を披露した。第3戦のブラジル戦は累積警告による出場停止でピッチに立つことは出来なかったが、森岡が出場した2試合で勝ち点6を積み上げており、これが結果的に決勝トーナメント進出をもたらしている。

 その決勝T第1戦(準々決勝メキシコ戦)では試合終了間際に追いつかれ、2-2で延長戦に突入したが決着がつかず、PK戦で勝敗を決めることに。森岡は3人目のキッカーとしてゴールネットを揺らしている。惜しくもチームはPK戦によって敗れてしまったが、ベスト8という記録に森岡をはじめとするOA選手の貢献度は計り知れないものがあった。

DF:酒井宏樹
生年月日:1990年4月12日
OA招集:東京五輪(2021年)ベスト4

 東京五輪に出場したDF酒井宏樹もまた、歴代最強のOAだと言えるのではないだろうか。

 対人守備に絶対的な自信を持つ酒井は、2度のオリンピックを経験している。当時22歳でロンドン五輪(2012年)代表チームに選出された同選手は、ちょうど柏レイソルからハノーファー(ドイツ)に加入が決定したタイミングであり、勢いそのままに五輪代表でも右SBとして活躍。グループリーグ第1戦のスペイン代表戦を1-0で勝利した日本代表はメダルまであと1歩のベスト4まで進出している。

 その後、A代表の右サイドに欠かせない存在となった酒井は、2021年の東京五輪にOAとして出場した。チームの目標は言わずもがなメキシコ五輪(1964年)以来のメダル獲得だ。同選手は右サイドバックのレギュラーとして起用され、グループリーグ第3戦のフランス代表戦では34分に貴重な追加点をマーク。積極的な攻撃参加からワンタッチボレーでゴールネットを揺らした。ただ、第2戦(メキシコ代表戦)、第3戦とイエローカードを貰ってしまったことで、準々決勝のニュージーランド代表戦は出場停止に。しかし、酒井不在のチームは何とかPK戦を乗り越えて準決勝進出を果たしている。同選手は0-1で敗れた準決勝・スペイン代表戦で復帰し、FWダニ・オルモなどスペイン自慢のアタッカーを封じてみせた。

 大会開幕前には、吉田麻也、酒井宏樹、遠藤航の3人は「史上最強のオーバーエイジ」だと言われていたが、その前評判に応えるハイパフォーマンスだったと言えるだろう。

DF:徳永悠平
生年月日:1983年9月25日
OA招集:ロンドン五輪(2012年)ベスト4

 ロンドン五輪のOA枠に徳永悠平が選ばれたニュースは、少々の驚きをもって迎えられた。

 右サイドバックを主戦場とする徳永は、2004年に開催されたアテネ五輪の代表メンバーに選ばれた。グループリーグ第1戦(パラグアイ戦)に出場したが、第2戦(イタリア戦)で前半途中に負傷交代。第3戦(ガーナ戦)でピッチに立つことはなく、チームはグループリーグ敗退を喫し、徳永としても不完全燃焼の幕切れとなってしまった。
 その8年後、徳永にはアテネ五輪での雪辱を果たすチャンスが舞い込んでくる。アテネで戦ったDF吉田麻也とともにロンドン五輪のOAに招集されたのだ。徳永が日本代表の主力選手ではなかったことから意外性のある選出だと受け止められたが、同選手を選んだ関塚隆監督の判断は見事だったと言えるだろう。定位置の右SBだけでなく左SB、センターバックでも起用可能であるため、スカッドに徳永がいれば戦術の幅が広がるとともに、様々な事態に対処できる。

 いざ大会が始まると、当時28歳だったユーティリティープレイヤーは左SBとして起用された。グループリーグ初戦のスペイン代表戦では90分フル出場して、MFフアン・マタやイスコを擁する攻撃陣をシャットアウト。相手が退場により1人少なくなったことも幸いし、粘り強く守って1-0の完勝を収めた。

 グループリーグ3試合無失点で迎えた、準々決勝(決勝トーナメント1回戦)のエジプト代表戦では、当時20歳のFWモハメド・サラーと対峙。のちにワールドクラスのスピードスター相手の守備は簡単ではなかったが、堅実なディフェンスで決定的な仕事をさせなかった。3-0の完封勝利で準決勝への切符をもぎ取っている。しかし、その後のチームは残念ながら準決勝、3位決定戦で敗れ、ベスト4という成績でロンドンを後にしている。

 最終的にメダル獲得という夢は叶わなかったものの、ロンドン五輪で徳永が果たした役割は大きい。そのプレーで若いチームに落ち着きと勇気をもたらした。ミスが許されない国際大会で準決勝まで無失点という記録が何よりの証拠だろう。

MF:遠藤航
生年月日:1993年2月9日
OA招集:東京五輪(2021年)

 現在リバプール(イングランド)で活躍するこの男は、東京五輪では「史上最強のオーバーエイジ」の一角を担っていた。

 MF遠藤航は、リオデジャネイロ五輪(2016年)、東京五輪(2021年)と2大会連続で出場。東京五輪ではOA枠での招集となり、日本代表が戦った全6試合でピッチに立っている。
 キャプテンとして臨んだリオ五輪で、チームはグループリーグ敗退。その悔しさを糧に、東京五輪ではMF田中碧とともに中盤を構成し、安定感あふれるプレーで攻守にわたって存在感を発揮した。「デュエル王」の名に恥じぬ球際の強さは勿論、今大会では鋭い縦パスやドリブルなど前への推進力溢れるプレーが印象的だった。

 獅子奮迅の活躍を見せていた「チームの心臓」だったが、3位決定戦(メキシコ代表戦)では低調なパフォーマンスに。フル稼働による疲労の色が見え、いつものキレを無くしてPK献上を含む3失点に絡んでしまった。準々決勝(ニュージーランド代表戦)、準決勝(スペイン代表戦)で、120分間にわたって繰り広げられた死闘にフル出場していたのだから仕方がないことかもしれない。

 それでも、3位決定戦のプレーで遠藤の評価が変わるはずがない。替えの利かない選手として中盤に君臨し続けた同選手は、まさに「史上最強」。大会を振り返った時、遠藤航がいなければベスト4進出はありえなかったと言っても過言ではないパフォーマンスだった。