防戦

突然の出来事で対応に遅れが出たうえ、「要害ノ地(防御の地)」の沿岸線は広く、召集の兵力が集まらず、賊船迎撃の船も整わなかった。

しかしながら大宰府から派遣された武者や怡土郡の住人文室忠光たちが合戦に臨み、賊徒に被害を与えたという。また、迎撃したわが国の勢力の中には、賊徒と激戦を展開し、首級を挙げる成果もあった。

その後の4月8日、那珂郡能古島(現福岡市西区)に刀伊の賊船が来着。

これに対応すべく、前将監(さきのしょうげん)大蔵朝臣種材(たねき)・藤原朝臣明範・散位(さんい)平朝臣為賢・平朝臣為忠・前将監藤原助高・傔杖(けんじょう)大蔵光弘・藤原友近らを博多警固所に派遣して防衛させた(警固所は能古島の南方に位置した)。

同9日早朝、刀伊軍は再び来襲し警固所を攻撃したため防戦に努めることになった。

矢戦では賊徒十余人を討ち、そのため刀伊軍は前進かなわず能古島に帰ったという。その後の2日間は風波が強く戦闘不能だったが、大宰府側では11日未明、早良郡から志摩郡船越津(現在の糸島半島の陸繋島にあった津)に精兵を配備し、敵の来襲に備えたという。