第1回が配信されるやいなや、大きな話題になった翻訳家・村井理子さんの隔週連載「更年期障害だと思ってたら重病だった話」。47歳の時に心臓に起きた異変。入院後、苦しい経食道心エコー検査やカテーテル検査を乗り越え、病名は「僧帽弁閉鎖不全症」と判明。「神の手」と呼ばれる医師のいる大学病院に転院し、手術を受けることになる。ところが、心臓手術の翌日、待っていたのは歩行訓練、そして激しい痛み。体の中に異物があるという辛さに負けそうになっていた時、心臓の横に入っていた管が抜かれる。いたああああ! 『全員悪人』の著者が送る闘病エッセイ第18回。

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前回●「肋骨をノコギリで切ったのに、手術翌日から歩くなんて無理でしょ、と思った話」

痛みはすべて我慢するものだった

痛みに対する考え方は、近年、大きく変わりつつあるように思う。

私が7歳で手術を受けた時、痛みはすべて我慢するものだった。特に、子どもはそうだった。なぜかというと、痛いのは仕方がないことだからだ。痛いということは治っていることだからだ。とてもいいことなのだ。そう説明された記憶がはっきり残っている。それに科学的根拠があったかどうかは、微妙だと思うのだけれど。

とにかく痛みに苦しめられた記憶ばかりだ。7歳の手術直後の痛みは断片的にしか記憶していない。でも、ICUにいた時、あまりの痛みにほとんど眠ることができなかったのは事実だ。

退院後数年間は、時折感じる刺すような胸骨の痛みに苦しみ、姿勢がどんどん悪くなり、教室の自分の机に座る時は、ほとんど突っ伏しているような状態になっていった。その突っ伏している私の背中を、担任の先生の容赦ない物差しがビシーッ! と叩くのだった。

時代と言えばそうなのだろう。あの頃、病気で体育の授業を休むことは完全なる「甘え」として受け取られていた。母がいくら担任の先生に手紙を書こうとも、体育の授業を休むことは許されなかった。当然、朝のマラソンもそうだ。元気な生徒はなぜか上半身裸で走っていた。真冬でもそうだった。どうかしていると、当時の私は考えていたし、毎日見学させてくれと諦めずに頼み、そして却下されていた。