終戦から77年。戦争の時代に少年少女だった人たちが高齢になっています。平和な時代を生きる私たちにとって戦争は無縁に思えますが、過去の大戦を体験した人々も、平穏な日常生活を送っていたのです。画家、絵本作家、装丁家として幅広く活躍し、2020年に逝去された安野光雅さんもその一人。その緻密で不思議な作品世界は、国境を越えて子どもから大人までを魅了し続けていますが、安野さんは19歳の時に召集されて兵隊になりました。安野さんの体験した「戦争」とは──(聞き手=堤江実 撮影= 藤澤靖子)

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「生きて虜囚の辱を受けず」

僕は最後の兵隊なんですよ。僕より下に兵隊はいなかったから、ずっといじめられっぱなしで、いじめたことがない。(笑)

生まれたのは1926年3月20日です。島根県の津和野で旅館を営む両親のもとに生まれました。早生まれで体は小さかったけれど、すごく元気な子どもだったの。何しろ赤ん坊の品評会で健康優良児に選ばれたくらいだから。6人ほどいた同級生のなかには僕と同じく品評会で選ばれたやつもいたけれど、今はもうみんな亡くなってしまいました。

6歳の頃に満洲事変があって、よく覚えているのは、『少年倶楽部』などの少年雑誌で佐藤紅緑さんがさかんに書いていました、子どものための感激美談。『英雄行進曲』とか『肉弾三勇士』とか……。

「肉弾三勇士」は「爆弾三勇士」とも言って、これは満洲事変の頃のシンボル的な存在でした。兵士が三人で爆弾を持って、敵の鉄条網を破壊しにいくのだけれど、爆弾に火を点けて逃げ帰るのに間に合わなくて死んでしまう。

三勇士への憧れはありませんでしたよ。でも、試験の答案用紙の裏に「爆弾三勇士」と書いたり、絵の時間も書の時間も「爆弾三勇士」。この美談に夢中になっていましたね。

その頃の男の子の遊びは、戦争ごっこ。バンバンと口で言いながら鉄砲を撃ったり、捕虜を捕まえてカゴをかぶせて、上からつついたりした。体は小さかったけど僕はいつもいじめ役。今思うと、強引に捕虜にされた子には悪いことしましたね。(笑)

本当の戦争では捕虜をいじめちゃいけないんだ。アメリカ軍は捕虜を歓待したといいますね。でも日本兵は絶対に捕虜にはならず、最後の一兵まで徹底的に戦えと言われていた。戦陣訓という行動規範があって、「生きて虜囚の辱を受けず」、つまり捕らえられたら死ね。これを信じていた。

なぜかというと、日本は恐怖政治だったから。それは恐ろしいものでね、僕らは「恐怖」と対決していたの。アメリカと戦争していたって、アメリカに憎い人なんか誰もいない。ロシアにも中国にも。でも強引に憎しみをかきたてて戦争していた。