大阪桐蔭で中田翔と2者連続弾を放った謝敷正吾氏…群馬・桐生で中学生指導の熱い日々

 かつて大阪桐蔭高の主軸として甲子園を沸かせたスターが今、もともとは縁もゆかりもなかった群馬県桐生市で、中学生の指導に当たっている。謝敷(しゃしき)正吾氏。昨年4月に発足した硬式野球チーム「桐生南ポニー」の監督に就任すると、同年7月には1年生を対象とした全国大会「ポニーブロンコ大会」で3位の快挙を達成。地域に根を張りつつある。

「いまだに『あの大阪桐蔭の……』と言っていただくことがあります。ただ、それは過去の野球歴。僕としては、桐生にいる自分が最高だと思ってもらえるように取り組んでいくだけです。10年後に『そう言えば、大阪桐蔭出身だった?』と言われるようになっていたら、いいですね」と謝敷氏。新天地で生き生きと活動している。

 大阪府出身の謝敷氏は、大阪桐蔭高2年の夏と3年の夏に甲子園出場した右投げ左打ちのスラッガー。3年だった2006年夏には、1回戦の横浜高(神奈川)戦に「3番・二塁」で出場し、8回にセンターへ特大の3ラン本塁打。続く1学年下の4番・中田翔外野手(現中日内野手)もセンターへ2者連続本塁打となるソロを放ち、全国の高校野球ファンの度肝を抜いた。

 続く2回戦では斎藤佑樹投手(前日本ハム)を擁し、この大会で全国制覇を遂げることになる早稲田実(西東京)に2-11の大敗を喫している。

 謝敷氏は卒業後に進学した明大でも、3年春に東京六大学リーグのベストナイン(二塁手)に選出されるなど活躍。独立リーグの石川ミリオンスターズでも2年間プレーしたが、ついに目標のNPBから指名されることはなかった。

「もともと24歳までにプロになれなければ、そこで野球をやめると決めていました。お腹いっぱい、野球をやれました。僕自身は高校時代がピークだったとは思っていなくて、毎年自分なりに成長して、24歳の時に一番プロに近づけたと思っています」と振り返る。

オープンハウスグループに就職し営業職、社長運転手も経験

 第二の人生でも、思いがけない形で野球に関わることになった。オープンハウスグループに就職し、6年間営業職。2020年に社内募集を見て、野球にも造詣が深い荒井正昭社長の運転手に立候補して抜擢された。オープンハウスグループは東京ヤクルトのトップスポンサーで、2022年に史上最年少3冠王に輝いた村上宗隆内野手へ「3億円分のマンション」を贈呈したことでも話題になった企業だ。

 運転手を務め、神宮球場のスタンドではヤクルト戦の“解説役”もこなすうちに、荒井社長の桐生南高野球部時代の2学年先輩で、千葉ロッテの執行役員事業本部長を務めたこともある荒木重雄氏と交流を深めたことが、謝敷氏を桐生へ導く。

 2021年3月限りで廃校となった桐生南高の跡地を、オープンハウスグループが取得。様々な有効利用の方策を探る中で、荒木氏が球団代表として桐生南ポニーを立ち上げ、グラウンドを練習場として使用することになった。謝敷氏は「オープンハウス桐生」の施設長に異動するかたわら、桐生南ポニーの監督に就任したのだった。

「選手の自主性を重んじる、荒木さんの方針に共感しました」と謝敷氏。指導者が偉ぶったり、選手に対して高圧的な言葉を投げかけることは禁物だ。「“上から目線”で選手を威圧して動かすことは、支配力の行使になり、自主性には全くつながりません。サポート役に徹し、どうすれば選手が自分で気付けるかを模索するのが、指導者の立場だと思います」と自戒も込めて話す。

 桐生南ポニーの全体練習は、基本的に4時間まで。「“全体練習でお腹いっぱいにさせないこと”を心がけています。全体練習で受け取ったことを、自主練習で実力に変換するサイクルでやっています」と説明する。

「僕自身、大阪桐蔭でも明大でも、自主性を重んじる指導者に恵まれてきましたが、社会に出てからは、自分にはまだまだ“やらされている感”があって、『ある程度指示をいただければ、やれます』という感覚にとどまっていたと実感しました」と述懐。指導者として「中学生の段階から、自分で物事をやる、やりたいという気持ちを育んでいければ、年齢を重ねるに従って大きな人間になれるのではないか」と思いを新たにしている。

 謝敷氏が妻と2男3女の家族7人で移住した桐生市は、「球都」と名乗るほど野球に熱心な土地柄。そこで野球人として、ますます深みを増している。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)