白武佳久氏は1994、1995年の1軍登板なし…肘や腰を痛めてボロボロの状態だった

 体が悲鳴を上げはじめた。1989年オフに広島からロッテにトレード移籍した白武佳久投手(現・広島スカウト統括部長)は1990年に10勝をマーク。1991年は抑えでも活躍して37登板、1勝6敗8セーブの成績を残した。監督が金田正一氏から八木沢荘六氏に代わった1992年は中継ぎで6勝3敗。投手王国・広島で鍛えられた右腕はロッテでも貴重な戦力になったが、長年の蓄積疲労がついに肘や腰を襲った。

 白武氏はロッテ時代を振り返りながら「移籍2年目(1991年)くらいから、防御率がガーンと悪くなっていったんですよね」と悔しそうに話した。10勝をマークした1990年は3.33だったが、1991年に4.59に跳ね上がった。好不調の波が激しく、抑える時はピシャリと抑えるが、打たれる時は失点も少なくない傾向。38登板の1992年も4.55、24登板(7先発)で1勝2敗に終わった1993年は4.91だった。

「出番はパ・リーグの方が全然あった。それはよかったと思います」というように、先発でも、中継ぎでも、抑えでも活躍した。広島時代以上にチームへの貢献度は大きかったが、それはプロ8年目から11年目の時期でもあり、年齢を重ねるとともに、体も万全ではなくなってきた。肘や腰などを痛めた。「ロッテでは3年目(1992年)までしか、まともにやっていないでしょ。もう全然投げられなくなってきたんですよね」。

 1993年9月19日のダイエー戦(千葉)で、白武氏は6回途中から3番手で登板。2回1/3を無失点で勝利投手になり、この年唯一の白星を挙げたが、これが結果的には現役ラストの通算39勝目になった。プロ12年目の1994年と13年目の1995年は1軍で1試合も登板できなかった。「12年目は故障が原因でした。肘を痛めてボロボロだったと思う。(シーズン途中に監督代行になった)中西(太)さんに『お前、やる気あるのか!』って言われたのも覚えています」。

1995年に指揮…バレンタイン監督に「反抗もしていた」

 そんなつらい1年を経て怪我も治り、再起を目指した1995年シーズンはボビー・バレンタイン監督率いる1軍から声がかからなかった。「アリゾナキャンプには行ったんですけどね。もう力不足だったかもしれないです。バレンタイン監督が“球が速い順に使う”とか言い出したから、34とかになって若いヤツと同じように投げられるかって反抗もしていたんですけどね」。指揮官との相性もよくなかったようだ。

 こんなことも明かした。「6月頃だったかなぁ、高木(益一)GM補佐から『バレンタインが呼んでいるぞ、再起をかけてやるんだったら、バッティングピッチャーでどれくらいやれるか、見せてみろ』って言われたんです。『どこに行くんですか』と聞いたら『福岡』っていうんで『わかりました。行きますよ』と返事して、バッティングピッチャーとして遠征に行ったことがありました。投げただけで終わりましたけどね。それがロッテで最後の“1軍”だった」。

 実績ある当時34歳の現役右腕が打撃投手として遠征に参加するだけでも、屈辱的な思いだったに違いない。「もういいや、これで終わりという気持ちにはなりましたね。その後も2軍では投げましたよ。ロッテで最後は(イースタン・リーグの)ヤクルト戦だったと思う。ヤクルトに日体大の後輩の斎藤(充弘投手)がいて『見とけよ、ワシの投げるさまを、最後じゃあ』と言って誰かにガーンとホームラン。『打たれてしまったわ』って話をしたのもよく覚えていますよ」。

 ロッテには1990年から6シーズン在籍した。結果を出した前半の3年間と、故障などもあって苦しい時期が続いた後半の3年間は、実に対照的な日々でもあった。自由契約になり、1995年シーズン限りで現役をやめるつもりだったのが、古巣の広島から誘われて復帰。広島・三村敏之監督の下でプロ14年目シーズンを迎えることになるが、トレードを経験したことは自身にプラスになったと白武氏は考えている。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)