米国防総省は昨年、アメリカ海軍が中国海軍に戦力差を詰められつつあり、艦艇保有隻数においてはすでに追い越されてしまった現実を公式に認めた(2020年10月13日付の本コラム参照)。その米海軍で今度は戦力面だけでなく、これまで米海軍が誇ってきた国際協力面においても、中国海洋戦力が躍り出てきたことを危惧せざるを得ない事態が生まれている。

というのは、2021年4月、インドネシアのバリ島とロンボク島の間にあるロンボク海峡で沈没したインドネシア海軍潜水艦「KRIナンガラ402」(Nanggala-402)を引き揚げる作業が中国海軍が協力して実施されることになったからである。

今回の事故では、沈没した潜水艦は水深約850メートルの海底に大きく3つの部分に分かれて横たわっている。こうした事態に、表向きは「中国がインドネシア海軍と協力して」作業にあたるとされているが、これほどの深海から潜水艦本体や散乱した残骸などを引き揚げる資機材と技術をインドネシアは持ち合わせていないため、実際の作業は事実上全て中国側が実施することになると見られている。

以前ならば、このような難易度の高い国際協力が必要な事態が起きた際には、アメリカ海軍が送り込まれるのが一般的だった。しかし今回、バイデン政権が名乗りを上げた様子はないとされている。下記のように、ロンボク海峡は海軍とりわけ潜水艦にとっては極めて重要な戦略要地であるが、新型コロナ禍からの復興に最大のプライオリティーを置いているバイデン政権にとってはそのような海軍戦略は後回しになってしまったものと思われる。そのため、出番を失った米海軍部隊からは失望の声が出ている。

沈没潜水艦の位置の特定については、インドネシア海軍がシンガポール海軍の協力を得て成功した。そして、インドネシア政府が何としてでも引き揚げたい意向を表明するや、間髪を入れずして中国政府が、深海作業チームを派遣して引き揚げ作業に協力する意向を伝達した。

ただし、中国側の申し出を受け入れるか否かということはインドネシア政府とりわけインドネシア海軍にとっては、単に人道支援的な国際協力を受け入れるという問題ではなく、国家安全保障上極めて大きな意思決定を必要とする問題となった。なぜならば、ロンボク海峡は海上交易にとっても軍事的にも極めて重要なチョークポイント(必ず通過しなければならない狭小な地点)であるからだ。

多数の島々で構成されている群島国家インドネシア周辺には多くの海峡が存在しており、なかでもマラッカ海峡、シンガポール海峡、スンダ海峡、ロンボク海峡、マカッサル海峡などは国際海運にとって極めて重要な航路になっている。

インド洋から太平洋に抜けるにはインド洋〜マラッカ海峡〜シンガポール海峡〜南シナ海〜バシー海峡〜西太平洋という航路が最短距離となる(その逆も同様)。しかしマラッカ海峡の水深は平均約25メートルと、浅い。このため巨大タンカーや超大型貨物船は通航できず、上記の航路を通過できる船舶の最大サイズは「マラッカマックス」と呼ばれる大きさに制限されている。

そのため、マラッカマックスを上回る巨大船がインド洋から南シナ海へ抜けるには、インド洋からロンボク海峡を経由することになる。あるいは、インド洋〜ロンボク海峡〜マカッサル海峡〜フィリピン海(西太平洋)というルートでインド洋から太平洋に抜ける航路も使われる。

インドネシアのバリ島東隣にあるロンボク島。白い砂浜が続く=2015年、古谷祐伸撮影

このように、インド洋と太平洋を行き来するにはマラッカ海峡あるいはロンボク海峡のいずれかを必ず通過しなければならず、もしそれらの海峡の通航が不可能になってしまうと(すなわち軍事的に制圧されてしまうと)、オーストラリア南方海域を大迂回(うかい)しなければならなくなってしまうのだ。

とりわけ潜水艦にとっては、ロンボク海峡は決定的に重要なチョークポイントとなっている。なぜならば、いかなる国の潜水艦といえども水深わずか25メートル程度のマラッカ海峡を敵に探知されずに通過することは不可能だからだ。

ところがロンボク海峡は、内部波が生ずることで恐れられている海峡である。内部波というのは、水温や塩分濃度などの違いなどによって海中に存在している密度が違う水層の境で生ずる「海中における波」である。そのような内部波は潜水艦の潜航にとって極めて危険な存在となる。今回のインドネシア海軍潜水艦の沈没も、強い内部波によって潜水艦が海底に向かって引き込まれた可能性が極めて高いと推測されている。

潜水艦にとっては天敵ともいえる内部波が多発するロンボク海峡を安全かつ迅速に潜航するにはロンボク海峡海中の詳細な科学的調査が必要となる。しかしながら、インドネシアの領域のまっただ中に位置するロンボク海峡で海洋調査を実施することは、インドネシア政府の同意なくしては、中国に限らずいずれの国にとっても至難の業である。

このような軍事的に重要なロンボク海峡での沈没潜水艦引き揚げ作業は、中国海軍にとっては最大のチャンスということになる。なぜならば水深850メートルほどの海底に沈没している潜水艦を引き揚げるには、当該海中の徹底した各種科学調査が必要になるからだ。

したがって、インドネシア政府が、中国海軍に沈没潜水艦引き揚げを依頼するということは、中国側がロンボク海峡の海洋調査を実施することを容認することになる。潜水艦引き揚げ作業を機に、今後は中国海軍から合同訓練や共同パトロールの実施を通して協力関係の構築を促進する働きかけがある可能性がある。

このような安全保障上の決断を要する局面で、インドネシア当局は、中国海軍による支援部隊の受け入れを決定した。中国海軍は現在、海軍の遠洋曳船や潜水艦救難艦、海洋深海科学調査船をロンボク海峡に派遣。慎重に海洋調査を実施した上で、850メートルの海底での沈没状況の確認をしながら、すでに散乱していた幾つかの残骸を無人深海探査艇によって回収し始めているという。

なんといっても潜水艦は現代海軍において最重要かつ最高機密に属する分野であるため、この分野に関して中国海軍とインドネシア海軍が協力関係を構築するということは、間違いなく両海軍のそして両国の軍事的協力関係を促進することになるものと思われる。

この事案は、日本にとっても無関心でいられる問題ではない。実はインドネシア海軍には日本のフリゲート(駆逐艦より小型だが、多くの海軍では主力の水上戦闘艦となっている軍艦)を売り込む話が具体的に進められており、中国側も関心を示していた。潜水艦引き揚げをきっかけとして中国海軍がインドネシアに食い込むことになれば、日本のフリゲート輸出計画にも影響が生ずる可能性がある。