韓国人の元徴用工ら85人が日本企業計16社に計86億ウォン(約8億4700万円)の損害賠償を求めていた訴訟で、ソウル中央地裁は7日、原告の訴えを却下する判決を下した。徴用工訴訟では、大法院(最高裁)が2018年、新日鉄住金(現・日本製鉄)と三菱重工業に賠償を命じた。なぜ、下級審にあたる地裁が大法院と異なる判決を出したのか。(牧野愛博)

■請求権行使できるか否か、で分かれた判断

今回の地裁判決は「個人の請求権が消滅したり、放棄されたりすることはない」としたが、1965年の日韓請求権協定に触れたうえで「訴訟では行使できない」と結論づけた。18年の大法院判決では個人の請求権は請求権協定で消滅せず、行使も可能だと判断していた。このとき、大法院の判事13人のうち2人は「個人の請求権は行使できない」として7日のソウル中央地裁と同じ見解を示していた。

韓国司法に詳しい日本の法曹関係者は「司法の独立が認められている以上、たとえ同じ裁判所でも裁判官が違えば、違う判断はありうる。同じ事件でも、証拠や主張が異なれば、裁判体ごとに事実認定が変わる可能性があるからだ」と話す。

ただ、今回は日韓請求権協定の存在を前提に「個人の請求権を行使できる」とする大法院と、「行使できない」とするソウル中央地裁とで、司法判断が正反対になってしまった。

この関係者によれば、ソウル中央地裁が3月29日に出した判決から、今回の判決もある程度予想できていたという。3月29日の判決は、1月8日に日本政府への損害賠償を認めた慰安婦訴訟判決を巡り、原告が訴訟費用の確保のために求めた日本政府の資産差し押さえについて「国際法に違反する可能性がある」として認めない判断を下した。関係者は「このときの裁判長が7日の徴用工判決の裁判も担当していたと聞いている。当然、同じ流れになると思っていた」と語る。

また、同地裁は、4月21日には、韓国人の元慰安婦ら20人が日本政府に求めた約30億ウォン(約2億9100万円)の損害賠償訴訟で、他国の裁判所が国の行為を裁けないとした国際慣習法上の「主権免除」の原則を認めて、原告の訴えを退けた。1月8日の判決と全く逆の判決になった。

ソウル中央地裁=東亜日報提供

ソウル中央地裁では2月に人事異動があった。さらに、韓国司法は現在、地裁と高裁の人事をそれぞれ独立して行うことを原則としている。日本の法曹関係者は「地裁の判事が高裁に行くために幹部におもねった判決を出すということもなくなった」と語る。

■「国民感情に寄り添う司法」

そして、この関係者は「3月の判決で、韓国司法の流れが元に戻った」と語る。

韓国司法は元々、今回のソウル中央地裁と似た判断を出し続けていた。ところが2012年5月が転機になる。大法院が徴用工訴訟判決で、1965年の日韓請求権協定によっても個人の請求権は消滅していないと判断。韓国司法はこの大法院判決以降、今年1月のソウル中央地裁判決に至るまで、徴用工・慰安婦訴訟で日本を困惑させる判決を連発してきた。

当時は11年12月にソウルの日本大使館近くに慰安婦を象徴する少女像が設置され、日本側が強く反発していた時期だった。同月に京都で開かれた日韓首脳会談も慰安婦問題の処理を巡って決裂した。当時の李明博大統領は保守系だったが、急速に日韓関係が悪化していったタイミングだった。

韓国・釜山の日本総領事館近くに置かれた徴用工を象徴する像。「日本は謝罪しろ」と書かれたプラカードを持つ市民団体のメンバーが集会を開いた=2019年3月1日、鈴木拓也撮影

韓国司法は軍事独裁政権下で、韓国に留学した在日韓国人をスパイ扱いしたり、野党の指導者だった金大中氏に死刑判決を下したりする判決を出してきた。この反省から、韓国司法は国民感情に寄り添うことを大きなテーマとしてきた。

6月7日の判決を下したソウル中央地裁のホームページにも「国民に信頼される良い裁判、国民が必要とする迅速で効率的な司法サービスを提供するために努力する」という地裁トップのあいさつを紹介している。

だが、「国民感情に寄り添う」という姿勢が、往々にして、その時々で国民の多数が支持する政府与党との一体化を招いた。そして、韓国大統領は大法院長(最高裁長官)の任命権を持つ。文在寅政権が2017年、「厳格で清貧な生活を維持している」として指名した金命洙大法院長は、進歩的な考えが強い法曹らが作った「ウリポプ(我々の法)研究会」の出身だ。

4月21日のソウル中央地裁による慰安婦訴訟判決も元々は1月に判決を予定していた。ところが、1月8日に別の訴訟で原告勝訴の判決が出ると期日を延期する措置を取った。

判決が延期されている間の1月18日、文在寅大統領は記者会見で「正直、困惑している」と発言。「(原告が)同意できる解決策を探すため、韓日間の協議を続ける」と語った。4月になって流れが変わった司法の動きは、文大統領の発言の変化と軌を一にしていると言える。

上述した日本の法曹関係者は「3月29日と4月21日の判決に対し、韓国世論は原告に同情する一方で、日韓関係の改善がより重要だという反応を示していた。韓国司法は当然、こうした世論の流れをみていたはずだ」と語る。

2019年12月に行われた首脳会談冒頭、韓国の文在寅大統領(左)と握手を交わす安倍晋三首相(当時)=中国・成都、岩下毅撮影

ただ、今回の地裁判決によって、2018年に確定した判決の効力が無効になるわけではない。敗訴した原告団も控訴する動きを示している。複数の日韓関係筋によれば、韓国政府は水面下で、元徴用工や元慰安婦らに接触し、韓国政府が日本企業や日本政府による賠償を肩代わりする「代位弁済」が可能かどうかを打診している。訴訟利益がなくなれば、企業などへの強制執行の必要性も消滅するという計算からだ。

だが、一部の原告は、日本政府や企業による賠償を強く求めている。文在寅政権は「被害者尊重主義」を取ってきたため、交渉は暗礁に乗り上げている。

韓国政府は昨年、複数回にわたって外務次官や大統領府外交秘書官らを極秘で訪日させ、解決策を探ってきたが、日本側は「企業や政府に損害が生じない措置が取られない限り、関係改善は難しい」という姿勢を伝えている。

今月には英国で主要7カ国(G7)首脳会議が開かれ、文在寅大統領も招待されて出席する。韓国政府は、日米韓協力を重視するバイデン米政権への配慮もあり、日韓首脳会談を模索したい考えという。ただ、日本政府内では「解決策を提示する準備が整わない以上、会談や接触はありえない」という声が上がっている。

文在寅政権は来年5月に任期末を迎える。丁世均前首相は5月末、日本政府が東京五輪・パラリンピックのホームページに掲載している地図に竹島を自国領土として表示したことを巡り、表示の変更がなければ五輪をボイコットすべきだという考えも示した。丁氏は文在寅支持派の推す有力な大統領候補者の1人で、今後もこうした政局を意識したとみられる発言が増えていく可能性が高い。

韓国政府関係者の一人は「今年10月末で、18年10月末の大法院判決を受けて関連訴訟を提起できる権利の時効が訪れる。そこで大統領が妥協案を示す余地は残されているが、果たしてその時点まで大統領に政治的余力が残されているかどうかはわからない」と語った。

日本の法曹関係者は「まず、この韓国司法の流れが高裁以上のレベルまで続くか注視すべきだ。韓国政府も司法を尊重すると言ってきた以上、この流れを奇貨として日韓関係改善に努力すべきだ」と語る。そして、「日本の司法判断は正しいが、韓国の妥協を後押しする政治的配慮はあっても良い。後は、文在寅政権の時にやるのか、次期政権でやるのかという判断も必要だろう」と語った。