2010年頃の話だが、ある台湾の大手部品メーカーを訪れた時の話だ。

「どうぞリラックスして、日本語でお話下さい」と、日本名が記された名刺を渡されたことがある。肩書きは技術担当の副総経理(副社長)と、相当な重職だ。

台湾では誰もが知るような有名上場企業なのに、なぜ日本人がこんな要職に就いているのか。

驚き戸惑いながら名刺交換し着席すると、程なくして董事長(会長:CEO)も入室し、人懐こい笑顔で語りかけてきた。

「ようこそ、はるか日本からよくお越し下さいました」

その日本語は淀みなく、発音を含めて全く違和感がない。そんな驚きが顔色に出ていたのか、董事長は自己紹介を兼ねて話し始めた。

「日本語は松下幸之助の著書で覚えました。翻訳本では彼の本当のメッセージがわからないので、原著を取り寄せ読んでいるうちに覚えたんです」

「正直、驚きました。しかし発音はどこで身につけられたのですか?日本に留学されていたのでしょうか」

「いえ。それがまだ、一度も行ったことがないんです。発音は優秀な副総経理の先生に教わりました」

「副総経理が日本人ということにも驚きました。元々、こちらでご縁があり入社されたのでしょうか」

すると2人は目を見合わせて笑い、どちらからともなく経緯を話し始める。その話はざっと30分くらい続いただろうか。

結論から言うと私はこの時、台湾は時間の問題でやがて日本を抜き去るであろうことを覚悟した。

そしてこの先、日本の長期低迷がさらに続くであろうことも。

それはどういうことか。

ありふれた非凡な”神様”

話は変わるが、八田與一(はった・よいち)という一人の日本人をご存知だろうか。

台湾では知らない人がいないほどの人物であり、1998年には台湾の歴史教科書にも載ったほど、その活躍が広く知られている土木工学の技術者だ。

木々の緑に囲まれ、烏山頭ダムを見下ろす場所にある八田與一の銅像=2009年7月、台湾南部木々の緑に囲まれ、烏山頭ダムを見下ろす場所にある八田與一の銅像=2009年7月、台湾南部

少し近現代史に興味がある人であれば、

「台湾に世界最大級のダムを建設した人」

「香川県に匹敵する広大な不毛の大地を、台湾最大の農業地帯に生まれ変わらせた技術者」

という程度には知っているかもしれない。

しかし敢えてこんな言い方をするが、八田は「ただそれだけの人」である。

巨大なインフラを設計し、技術者として土木工事を指揮したことは事実だが、それだけであれば国内外を問わず近現代、多くの日本人がいただろう。

にも関わらず八田の場合、工事起工100周年式典には蔡英文・総統と蘇貞昌・行政院長(首相)のトップ2が揃って出席するなど、その偉業を称えることはもはや台湾の国家的行事にまでなっている。

八田與一の慰霊祭で献花する馬英九(マーインチウ)氏=2008年5月、台湾南部八田與一の慰霊祭で献花する馬英九(マーインチウ)氏=2008年5月、台湾南部

さらに2004年に来日した李登輝・総統(当時)は八田の故郷である金沢を表敬訪問し、陳水扁・総統(当時)は2007年5月に八田に褒章令を出すなど、指導者が代替わりをしても、その偉業を称える価値観は変わらない。一体なぜなのか。

八田與一の胸像と記念撮影する李登輝・元台湾総統夫妻=2004年12月、金沢市のふるさと偉人館八田與一の胸像と記念撮影する李登輝・元台湾総統夫妻=2004年12月、金沢市のふるさと偉人館

そんな八田與一は1886年2月21日、今の金沢市八田町に生まれている。

実家は裕福な農家であり、1907年9月、東京帝国大学工科大学に入学して土木工学の基礎を学ぶ。

そして1910年に卒業すると、日本統治が始まってから15年目を迎えていた台湾に渡り、台湾総督府の職員としてその技術者人生をスタートする。

そんな八田に大きな仕事が舞い込んできたのは、まだ若き31歳の頃、1917年のことであった。

台湾南部の開発のため、大規模な水力発電が可能な候補地を調査・測量し、食糧増産のための灌漑計画と合わせて立案せよ、という命令である。

それから3年、自らの足で原生林を歩き現地の人々と交流を重ねた八田は、台湾最大の平地である嘉南平原全体を灌漑する水利計画と、烏山頭(うさんとう)ダムの建設計画をまとめる。

烏山頭ダム=Guanting Chen/Wikimedia Commons烏山頭ダム=Guanting Chen/Wikimedia Commons

繰り返すが、嘉南平原は香川県に匹敵する大きさで、東京23区の2.5倍に相当する原野だ。烏山頭ダムの建設はそれを潤す一大計画である。台湾全土が九州ほどの面積であると言えば、その事業の大きさがさらによくわかるだろう。

当然のことながら、その非現実的な計画を受け取った八田の上司は当初「お前はバカか!」と計画を一蹴するが、八田は譲らない。

台湾の食糧事情を改善し、また貧困や水不足に悩む農民に等しく農業の恩恵を行き渡らせるにはこれしか無いと、計画の遂行を強く主張する。

八田には、生涯を通じて変わらない一つの設計思想があった。それは「技術とは、その受益者のためにある」という信念だ。

よくある官製インフラのように、作ることが目的のハコモノや予算消化のための事業構想とは全く異なる。

実際に八田はこの計画を立てた際、水利を最大限に活かすため、嘉南平原を三つに分け、「3年輪作給水法」を考案し、米、甘庶(さとうきび)、野菜を交代で栽培する出口計画までまとめ上げている。

目的から逆算し手段を整える、当たり前といえば当たり前だが費用対効果を最大化する設計思想である。

そしてその計画の精緻さに根負けした台湾総督府は、ついにその計画の実行と予算化を認めることになった。

こうして始まった前代未聞の大規模工事であったが、更に圧巻であったのは着工から3年後の1923年に発生した関東大震災と、それに伴う工事予算の大幅縮減の命令に際し、八田が下した決断であった。

東京の復興を最優先した日本政府は不要不急の事業を全て中止し、この工事からも予算を引き剥がすと、技術者の半数を解雇するよう八田に通知する。

烏山頭ダムの位置=GLOBE+編集部作成烏山頭ダムの位置=GLOBE+編集部作成

しかしこのような世界初の大規模事業で技術者を半数も失うと、工事はたちまち立ち行かなくなるだろう。

この状況に追い詰められた八田だったが、彼は迷いなく、異例の決断をする。それは「日本人、台湾人の区別なく、優秀な技術者から辞めてもらう」というものだった。

繰り返すが、「優秀な技術者から、辞めてもらう」である。

当然のことながら、各領域の職長級からはそれでは仕事が回らなくなると懸念が寄せられるが、八田はこう答えた。

「諸君の心配はわかるが、優秀な技術者なら再就職に苦労はない。しかしそうでないものを解雇したら、家族ともども路頭に迷ってしまうだろう。どうか理解し、その穴埋めに皆で協力して欲しい」

そして解雇するものをひとりひとり呼び出すと、割増の賃金を自ら手渡し、泣きながら詫びた。

さらに希望するもの全員の再就職先を自ら手配し、推薦状をしたため、今以上の条件で雇用するよう条件交渉でも前面に立った。

八田にとってみれば、「優秀な技術者ほど、より良い条件での新しい職場を用意できる」という想いもあったのだろう。

そして解雇したものに新天地を用意し終えると、改めて烏山頭ダムの建設と嘉南平原の灌漑に向き直り、工事を急いだ。

このような八田の信義と覚悟に接し、自分たちのリーダーに対する敬慕の念を深めないような者がいるだろうか。

決して容易ではなかったはずだが、残された技術者や労働者は八田の期待に応え、しっかりとその穴埋めを果たし予定通りの工期で、1930年に全ての工事は完成を迎える。

そして乾ききった不毛の原野に豊かな水が導かれ、緑が映える大地へと変貌を遂げた嘉南平原は、台湾最大の農業地帯へと生まれ変わった。

これが、八田與一が成し遂げた偉業の概要だ。

この話を聞き、どのような印象を持たれるだろうか。

私には、八田與一という人はもはや一人の技術者ではなく、途方も無い夢と現実主義に裏付けられた政治家であり、結果を残せる経営者であり、大組織を率いるリーダーが身につけるべきあらゆる資質の体現者であるようにすら思える。

4千億円に相当する国家予算の獲得に始まり、渡米しこの大事業を成し遂げるための重機を買い付け、さらに新技術の導入を嫌がる現場に対し、一切の妥協なく自らの方針を徹底させた信念。

その実行力たるや、並大抵の政治家や経営者など全く比較にならない。歴史上で、八田に比するほどの勇気、知恵、信義と優しさに溢れたリーダーを、私は他に何人も知らない。

そしてそれから100年の時を経た今も、烏山頭ダムは嘉南平原を潤し続け、八田の記憶とともに台湾の人たちの心を満たし続けている。

「人を大事にする本質を見失っては、国も企業も立ち行かない」

話は冒頭の、2010年頃の台湾での商談についてだ。なぜ私が今後の台湾のさらなる躍進を覚悟したのか。

副総経理は自らを「私は日本企業をクビになった技術者なんです」と話し始めた。そして誰もが知る大手家電メーカーの名を挙げ、2000年代初頭にリストラされ、台湾に渡り董事長に拾われたことも。

それに対し董事長は、

「日本の経営者は、技術者を安く考えすぎている」

「人を大事にする本質を見失っては、国も企業も立ち行かない」

と、松下幸之助の生き様を引き合いに、その経営思想を熱く語り始めた。

そして副総経理も、そんな董事長の期待に応え同社の上場と技術革新に多大な貢献を果たし、日本向けの製品でも大きく売上を伸ばしていた。

なんのことはない、日本企業は中高年の厄介払いをしたつもりになって、競争相手にこれ以上はない技術と技術者を無償提供していたのである。貧すれば鈍するとは言え、こんな情けない話があるだろうか。

そしてこの後、私は台北から台中、台南、高雄まで周り多くの台湾企業の経営者とお会いすることになるが、多かれ少なかれ、同じような危機感を叩きつけられることになる。

翻ってみて、今の日本企業の経営者はどのようなメッセージ性を、その従業員や世の中に対して発信しているだろうか。

「解雇規制を緩和すべきだ」

「国際競争力を高めるため、定年年齢の引き下げを」

といったように、人を資産ではなく負債であると捉えているリーダーの発信が目立つということはないだろうか。

もちろんこれらは、メディアによりセンセーショナルに切り取られている側面はあるだろう。また時代の変化の中で、これら経営者の危機感には一面の真理もあり、感情的に批判ばかりをしても得られるものは少ない。

しかしその一方で、少なくない経営者が「優秀な人だけを集めれば会社は上手くいくのに」などと、情けない夢想をしているのもまた事実ではないだろうか。

断言をしてもいいが、優秀とされる人だけを残しても組織は決して強くならないし、凡人とされる人だけを集めても弱い組織になるわけではない。

組織の強さとは、どこまでいってもリーダーの強さと覚悟の鏡映しである。

「当社には国際競争力がない」と思うのであれば、それは「リーダー自身が世界で戦うほどの器ではない」というだけに過ぎない。従業員の解雇が難しいことを嘆くなら、自分の身の振り方を考えるべきだ。

時代が変わり、日本は様々な社会制度を見直す必要があることは事実だろう。しかし時代は変わっても、絶対に変わらない価値観がある。

それは、「人は負債ではなく、資産である」という揺るぎない真実である。

そしてそんな生き方と価値観を貫いたことこそが、「一介の土木技術者」が台湾を挙げ、今も敬慕の念を集め続けている本当の理由なのではないだろうか。

「人を大事にする本質を見失っては、国も企業も立ち行かない」という変わらぬ原理原則。

それを今、今度は私たちが台湾の人たちから学ぶ番なのかも知れない。