本誌巻頭エッセイ、寿木けいさんの「ひんぴんさんになりたくて」。ひんぴんさんとは、「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)」=教養や美しさなどの外側と、飾らない本質が見事に調和した、その人のありのままを指す​、​という言葉から、寿木さんが生み出した人物像。日々の生活の中で、彼女が出逢った、ひんぴんさんたちの物語。

山梨で民泊を始める準備をしている。
この料理にこのワインを合わせて、東の壁には大きな絵を飾って……ひとりだけの思索の時間は、とてもたのしい。
いっぽう、融資を受けるための事業計画書を作るときには、つまるところ利益を上げられを突きつられる。なぜ宿でなければならないのか──基本に立ち返って何度でも考えるとき、思い浮かぶのは、これまで旅したさまざまな土地と宿、そして出会った人々のことである。

二十九歳の冬、ひとりでパリを旅した。休暇のほとんどを旅に費やしていた私のささやかな希望は、パリで暮らすように十日間を過ごすことだった。渡りに船、編集部の先輩がセーヌ河右岸に住む日本人ファミリーを紹介してくれた。
一家は自宅の一室を紹介制の民泊として提供していた。家族構成は会社を経営するお父さん、四国生まれのマダム、そして十代半ばのお兄ちゃんと、小学生の妹ちゃん。マダムとメールでやりとりを重ね、十日間滞在できる運びとなった。
宿では鍵を渡され、いつでも(ただしできるだけ静かに)出入り自由だった。
お兄ちゃんは私を下にも置かないレディファーストぶりが徹底されていて、妹ちゃんは髪をかきあげ、私の発音を手厳しく矯正してくるいっぱしの女だった。
何日か経つと、ひんぱんに人が出入りしている気配を感じるようになった。
ある晩、街へ出ることに疲れ、自室でのんびり過ごしていたら、女の人が訪ねてきては家の中央に吸い込まれていく。
こんばんはと追いかけてみると、数人の日本人女性がマダムを囲んで話しこんでいた。このとき知ったことだが、自宅の居間がサロンとして開放されていたのだった。
日本を飛び出して仏人青年と駆け落ちした社長令嬢。エイズ検査を専門とする医療従事者。古い酒蔵の生家に反抗し、ワイン醸造を学ぶ女性…自己紹介もそこそこに、話題は暮らしにまつわる無数の悩みへと賑やかに広がっていった。
異国で暮らすのは、簡単なことではない。私はパリに寄りかかるポーズだけ女だが、みんなはそうではなかった。アイデンティティを見失わないよう、サチライトを振り回しているように私には見えたし、それでもパリに心底惚れてしまったからには、小さな哀しさを抱えていて、それぞれに魅力的だった。

マダムがさまざまなアドバイスをしてれたなかでも、みんなの瞳がいっせいに輝いたのは、子どもの話題だった。
「パリでは街が子どもを育ててくれる」
マダムが事もなげに言った。
地下鉄でも道でも、大人が見知らぬ子どもを叱って躾けるし、声をかけ合う。だから子育てが孤独じゃない。特に私に向かっては、日本で母親をやるよりうんといいよと付け加えた。母親の孤独というものをまだ私は知らなかったが、この言葉を今は痛みとともに覚えている。
マダムにとって、宿泊費など大して家計の足しにならなかっただろう。困っている女性を招くことを、崇高な人助け精神の一環だとも思わない。家に風を入れ、励まされていたのは、マダム自身だったのではないかと私は思う。

「どうして民泊なんですか?」
融資の担当者や役所の職員に、こう聞かれたことが何度もある。
自分の体験から語ることしかできないが、真剣に遊びながら暮らしていく生き方がそのまま、他者をもてなすことに通じるのが、自宅を開放することのたまらないおもしろさだと私は感じている。
人を招く母親の姿を見て、子どもは一期一会の関わりを学ぶだろう。子どもを他者の価値観に触れさせることもできる。そうして誰かの記憶に残り、自分も誰かの思い出を宝物にして生きることができる。私はそういう旅をしてきたし、人生の残り時間を使って、もっと深めてみたいと思う。

パリの夜、ふとサロンの飾り棚を見ると、ある女性のスナップ写真があった。パリコレの長期滞在時に、マダムのところに遊びにきていたのかもしれない。
のちに俳優となり、そして親になった彼女が、子どもを連れて渡仏したことを最近知った。あのサロンに集まっては散っていった女性のひとりとして、私は彼女の決断が無性にうれしかった。
部屋に向かう螺旋階段を、彼女が長い脚で駆け上がっていった姿を想像する。
光の差すほうへ、向かっていく。

illustration : agoera

寿木けい

「すずき・けい/エッセイスト、料理家。富山県出身、今年から山梨県在住。編集者として働きながら執筆活動をスタート。最新刊『泣いてちゃごはんに遅れるよ』(幻冬舎)。秋に大和書房から新刊が発売予定。」