本誌巻頭エッセイ、寿木けいさんの「ひんぴんさんになりたくて」。ひんぴんさんとは、「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)」=教養や美しさなどの外側と、飾らない本質が見事に調和した、その人のありのままを指す​、​という言葉から、寿木さんが生み出した人物像。日々の生活の中で、彼女が出逢った、ひんぴんさんたちの物語。

験担ぎ(げんかつぎ)というものが私にもひとつだけあって、それは、東京・門前仲町のお不動さんに欠かさずお参りすることだ。
東京に住んでいた頃は最低でも月にいちど山梨に越してからは、二か月は間隔が空かないようにしている。
正式名称は、成田山東京別院・深川不動堂。ご本尊の不動明王は、右手の剣で迷いを断ち、左手の縄で身を吊しあげて、私たちを正しいほうへ導く。眉眉間にしわを寄せた厳しい表情は、煩悩を抱えたすべての人を救うのに忙しいからで、その心は慈悲一色である。
不動堂では、護摩木を火にくべてお不動さんに捧げ、煩悩を清らかな願いへ昇華させる祈祷が毎日行われている。関東であれだけの勢いの炎を見られるところは、おそらくほかにない。まず太鼓が静寂を叩き割る。燃えさかる炎を取り囲んで、法螺貝の音色が唸り、お経が一心に唱えられる。地から湧くような声で。
欠かさず訪れていると書いたが、正確に言うと、くじけそうになるたびに本堂に座ってきた。
ひとたび炎と仏様の前に出れば、はたして自分はやれるだけのことをやったのか、正直に向き合うほかはなく、ごまかしはきかない。本堂をあとにする頃には、もう少し頑張ろうと決めている日もあるし、逆に、手放すことを自分に許し、楽になっている日もある。
あるとき、お参りを終え、参道を駅へ戻る途中で、夢だった仕事のひとつが叶電話がかかってきた。そのお礼をしに訪れた翌月、今度はまた別の仕事依頼が届き───こんな幸運が続いてしまったら、お参りをサボれるはずがない。

今年の三が日も、古い友人と一緒に出かけた。平日はのんびりした不動堂だが、正月ばかりは押すな押すなの賑わいで、お賽銭が景気よく飛んでいた。
護摩祈祷を終えて、人の波に流されるままにあたりを見物していると、熊手が目に入った。ひとつ買って帰ろうかと思ったそのとき、友人が、
「自分のほうにばっかり掻き集めるみたいで、あんまり好きじゃないな」
熊手をちらっと見て言った。
聞けば、彼女にとっての理想は、外へ外へ、与えることだという。医療従事者らしい矢印の向きだなと思った。そういえば、さっき見た友人の護摩木には、「強運」とのびのびした筆跡で書かれていたのだった。それは運を独り占めするためではない。強くなって、人を助ける力を授けてほしいと願うのだ。
ふと、昔、社会見学の一環として、子どもたちと消防署に行ったときのことを思い出した。
「火、怖くないの?」
小さな子が消防士さんに尋ね、その答えとして、日頃から自分の身を自分で守訓練をしているから、怖くはないよ、それにまず自分が強くなければ、みんなを助けることはできないんだよ、といったことを話してくださったのだった。
正月のお参りのすぐあとで、またうれしい依頼が舞い込んできた。ちょうど節分の頃に東京で仕事の予定があったので、そのまま門前仲町に宿を取り、翌朝お礼参りに行くことにした。
夜に門前仲町にいるとなれば、飲みに行きたい。観光客が引いた街は静かで、初めて歩く土地のように感じた。
ホテルの近くにあるバー「G」で飲んでいると、ひとりの男性が入ってきた。そして、聞き慣れない名前の、なにやら強いらしい酒を、ショットでふたつ注文した。どんな会話も漏れ聞こえてくるような、くつろげる小さな店だ。
「そうか、今日、お父様の」
カウンターに立つ店主がこう言った。
男性はお父様の命日に蝋燭を灯す代わりに、いつものこの店で、こうしてお父様を弔ってきたそうだ。
「お不動さん、僕も好きです」
私が門前仲町で飲んでいる理由を聞いて、男性が言った。
知らない人と隣り合わせの夜の街にまぎれているほうが、より「ひとり」を感じる。二度と会えない人がいることが、くっきり浮かび上がる。私も酒飲みだから、そういう気持ちが分かる。
自分は何者でもないという孤独に耐えられる場所というのは、都会では、このような街の、このような酒場にしか残っていないのではないか。三百年続く祈りを一身に受け止め、発展してきた街だ。理屈では説明できない力が宿っていても、不思議ではない。

illustration : agoera

寿木けい エッセイスト、料理家

すずき・けい/富山県出身。編集者として働きながら執筆活動をスタートする。四半世紀の東京暮らしを経て、昨年から山梨在住。最新刊『愛しい小酌』(大和書房)が発売中。

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