広島にWEリーグ・サンフレッチェ広島レジーナ誕生、そこから南北に延びる平和の軸線に日本サッカーの礎を築いた似島、また新たな100年へ…


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上記の画像は光の関係で良い写真ではない。左からサンフレッチェ広島WEリーグ準備室室長の久保雅義取締役、広島出身の齋原みず稀、同じく左山桃子、初代主将に指名された近賀ゆかり、そして中村伸監督。(3月8日、おりづるタワー展望台で撮影)

近賀ゆかり選手と中村伸監督の両肩間に見えるのが広島市平和記念公園レストハウス。1929年(昭和4年)年に建った大正屋呉服店のビルには被爆後、何度も手が加えられ2020年(令和2年)年7月、歴史、地域振興、観光などの多様な活動をつなぐ起点としてリニューアルオープンした。その背景は平和祈念公園。

だが、この写真にはもう一カ所、大事な場所が写っている。似島(広島市南区)、だ。

齋原みず稀選手の背後にあるマンションの最上階の向こうに、わずかに”安芸の小富士”と呼ばれるその姿が確認できる。

ゆえにこの写真は広島のスポーツ100年を語る上で欠かせないものとなるはずだ。

 

サンフレッチェ広島のオフィシャルサイトには「被爆からの復興と広島のサッカー」というコーナーがある。

2019年12月にサンフレッチェ広島に”転身”した仙田信吾社長の意向で誕生した。3年後のこの時期には光輝くその姿を見せているであろう新サッカースタジアム建設の機運を高める狙いもあるだろう。広島の長い歴史と戦後復興に、スポーツがどれだけ深く関わってきたか。スポーツは人々の生き様に無限のエネルギーを与えてくれる。子供のころの夢が現実となり、人々の心をひとつにする。優勝の瞬間や優勝パレードはその最たるものだ。

サンフレッチェ広島サイトにある紹介を以下、そのまま引用する。大事なことが記してある。

 

草創期 (1900年度〜1920年度 [明治〜大正初期])
広島サッカーの夜明け
広島サッカーの起点は、東京高等師範学校(東京高師)に由来する。後の東京教育大、現在の筑波大である。明治期に校内に運動会(体育会、後の校友会)が設けられ、その中に「フットボール(サッカー)部」が設置された。

教授の坪井玄道氏はサッカーに心身両面における教育的価値を見出し、欧米視察もおこなうなど、熱心にサッカーの普及に意を注いだ。

東京に次いで日本で2番目の高等師範学校となる広島高等師範学校(広島高師)は1902(明治35)年、広島市に設置され、東京師範と同様、学生の課外活動のために校友会が組織された。

その校友会の中に蹴球部(サッカー部)が存在し、東京高師出身の助教授や、オックスフォード大学出身のイギリス人教授が学生たちを指導。だが、当時はまだ対戦相手がおらず、対外試合を実施するまでには至らなかった。

広島地域で本格的にサッカーが普及し始めたのは、1911(明治44)年からである。県立広島中学(後の広島一中、現国泰寺高校)の弘瀬時治校長は英国パブリック・スクール教育を信奉し、「紳士のスポーツ・サッカー」を学生たちに奨励。

この年の4月、弘瀬校長は日本サッカーの源流である母校の東京高師から、サッカー指導者として松本寛次氏をスカウト。松本氏は東京高師サッカー部の主将を務めるほどの実力の持ち主であり、着任後すぐさま蹴球部の指導にあたり学生たちのレベルアップに尽力した。

ちなみに、広島中のスクールカラーは「紫」であり、後のサンフレッチェ広島のチームカラーである紫はここにルーツをもつ。広島中の「紫」は紺系統の紫であり、英語で表記するならば「Bluish purple」もしくは「Purple navy blue」である。

その広島中に続いて、広島商業にサッカーが芽生えれば、広島師範もサッカーを導入。広島市内の有力校が相次いで新球技サッカーを取り入れ、互いに腕を磨き始めた。

そして、この普及に多くの影響を与えたのが東京高師にルーツを持つ人たちの存在である。広島サッカーの夜明けは東京高師人脈によってもたらされたといえる。


広島市内でドイツ兵チームと国際試合開催

第1次大戦時の1914(大正3)年8月、日英同盟を結んでいた日本はドイツに宣戦布告し中国・青島(チンタオ)を攻撃。 ドイツ軍の守備隊兵士のうち545人が似島(広島市南区)に建設された捕虜収容所に送られた。ドイツ兵たちの中には運動能力に秀でた者たちも多く、収容所ではサッカーチームが組織され、1、2軍があった。

5年後の1919(大正8)年1月、この時代においては極めて珍しい、サッカーの国際試合が広島市内で実現。似島捕虜収容所のドイツ兵チームと創部まだ日の浅い地元広島学生チームが対戦した。

結果は広島学生チームの大敗。しかし、この時ドイツ兵たちが魅せたプレーは地元の学生たちを覚醒させることになる。強烈な衝撃を受けた広島の学生たちは、毎週のように小船に乗って似島に渡り、ドイツ兵たちに指導を請い、最新のテクニック、戦術を習得。

彼らの素直な姿勢と努力の結果、ただやみくもにラッシュを繰り返すだけの広島式サッカーは最新のドイツ式サッカーへと変貌を遂げたのであった。

さらに、この時にドイツ兵から教えを請うた学生の一人、広島高師主将の田中敬孝氏は、似島のドイツ式サッカーを母校広島中はもとより、求められれば、西日本各地へも出向いて技術を伝授。 田中氏のみならず、多くの広島出身者は赴任した各地でサッカー指導を要請され、広島から関西、西日本一円に影響を与えた。日本サッカーの普及と強化の出発点ともいえる。

1921(大正10)年、ドイツ兵チームとの国際試合での大敗から2年後の5月、広島中は第五回極東選手権に出場した国内初の選抜チームである日本代表から勝利。相当な自信を得た広島中イレブは、勢いのまま10月に広島高師がはじめた第1回中等大会、11月には神戸高商主催の第1回関西中等大会でも優勝を果たした。

広島サッカーが全国に存在感を示した同年に、日本サッカー協会が設立された。協会発足時には、多くの広島中、広島高等師範の関係者が名を連ねた。日本において草創期からサッカーの普及、レベルアップに取り組んでいた広島人脈が日本のサッカーの要所、中央に配されることになったのは自然な流れといえるだろう。

広島サッカーが全国に存在感を示した同年に、日本サッカー協会が設立された。協会発足時には、多くの広島中、広島高等師範の関係者が名を連ねた。日本において草創期からサッカーの普及、レベルアップに取り組んでいた広島人脈が日本のサッカーの要所、中央に配されることになったのは自然な流れといえるだろう。

(引用は以上)


冒頭の写真は次の写真と同じ価値があるかもしれない。1919年1月の広島初の”国際マッチ”を今に伝えるモノクロの記憶から100年、今度は広島から女子サッカー、女子スポーツ、日本社会、文化、ビジネスにおいて女性の素晴らしい功績をたたえ女性の人権や地位向上、ジェンダー平等の社会について考え行動する新たな風を起こす。

日本サッカーの黎明期や戦前戦後に、やはり広島が大事な役割を果たしてきたように…

※画像はひろスポ!でご覧ください
ドイツ捕虜と広島サッカーの交流を記録した一枚

※画像はひろスポ!でご覧ください
ドイツ軍捕虜がサッカーを楽しんだ空間は昭和以降、グラウンドとして使われサッカーも行われる

※画像はひろスポ!でご覧ください
似島



3月8日、サンフレッチェ広島は原爆ドームを見下ろす広島市中区大手町のおりづるタワーでサンフレッチェ広島女子の「チーム呼称および新体制発表」記者会見を行いチーム名「サンフレッチェ広島レジーナ」を発表。会見に先立ち、あいさつに立った久保雅義取締役は次のように話した。

「本日3月8日は、女性の生き方を考える国際女性デーに定められていることに加え、日本サッカー協会はこの日を女子サッカーデーに定めています。まさにサンフレッチェ広島女子プロチームがスタートする歴史的な一日として非常に意義のある日でごさいます」

9月に開幕するWEリーグは「女子サッカー・スポーツを通じて、夢や生き方の多様性にあふれ1人ひとりが輝く社会の実現・発展に貢献する」という理念を掲げる。そして…

・日本の女性活躍社会を牽引する
・日本に「女子プロスポーツ」を根付かせる
・日本の女子サッカーの発展に貢献する
・なでしこジャパンを再び世界一にする

…という明確なビジョンをその先に据えている。


広島では都道府県議に占める女性の割合や区市議会議員に占める女性の割合ひとつ取っても全国上位20にすら入っていない。

日本サッカー協会のオフィシャルサイトには「日本代表年間スケジュール」が掲載されいる。日本女子代表・なでしこジャパンは6月10日、エディオンスタジアム広島で国際親善試合(対戦相手未定)を開催することが決まっている。

WEリーグの理念に則り、広島がやがて女子サッカーの新たな聖地となっていく。

新たに広島に誕生するサッカースタジアム、そのすぐそばを南北に貫く「平和の軸線」。

サッカースタジアムそば、原爆ドーム、原爆慰霊碑を繋ぐその軸線を南に8キロ程度伸ばせば似島の浮かぶ辺りに届く。やがてこの軸線を巡った女子サッカー選手たちが世界舞台のピッチに立つことになるのだろう。

広島スポーツ100年取材班&田辺一球