トップ画像は比治山陸軍墓地から11月29日午後5時過ぎ撮影、画像中央に”レンガ色”の旧陸軍被服支廠倉庫群、その左が高津監督の通った広島工の校舎


 


古葉竹識さんの訃報が届いたのは日本シリーズ開幕を4日後に控えた11月16日のことだった。亡くなったのは12日だったという。


 


広島を3度の日本一に導いた古葉さんの当時の住まいはJR広島駅から車で15分の牛田地区にあった。当時の外国人砲、キース・ギャレット選手ら牛田地区在住だった選手、OBは多数いる。今もそうだ。


 


古葉さんの邸宅のそばに原爆投下直後に瀕死の人たちが運び込まれた竹藪がある。山陽新幹線が広島まで伸びてきた年に成し遂げられた1975年の「カープV1」は戦後復興期を経て蘇った広島の道標になった。


 


「カープ初優勝」のパレードが開催され、2年後にはひろしまフラワーフェスティバルとして生まれ変わった。コロナ禍により2020年は中止、今年はリモートで開催された。その会場となる平和大通りの東詰めに、やはり「日本一」になったヤクルト高津臣吾監督の生まれ育った段原地区がある。


 


平和大通りと段原地区の間に横たわっているのが比治山だ。頂上付近に先ごろデジタル対応で新たに設置されたNHK広島放送所のアンテナ(鉄塔)がある。


 


 


原爆投下で広島は廃墟と化したが、比治山の影になった段原地区は被災を免れ、あるいは軽微な被害となった。そのため市民の生活空間として過密化していき、戦後の復興から取り残された。


 


戦後27年目、大阪万博から2年後の1972年(カープ初優勝の3年前)にようやく段原再開発事業が動き出した。高津監督が小学生になる前の話だ。


 


ゆえに高津監督が通った段原中学も被爆時に倒壊を免れた校舎がそのまま使われていた。移転新築されたのは2011年になってから。段原再開発は住民らの反対の声を抑えながら長い年月をかけて2014年春に完了した。


 


 


 


今回の日本シリーズに関して、ひろスポ!では「3部作」を報じてきた。今回はその「結び」である。


 


ヤクルトvsオリックス日本シリーズは高津vs水本、梵…の”広島対決”勝つのはどっちだ?


ひろスポ!でそう投げかけたが、その答えは「高津監督」だった。


これは快挙だ。


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ひろスポ!高津vs水本…3部作


ヤクルトvsオリックス日本シリーズは高津vs水本、梵…の”広島対決”勝つのはどっちだ? |


ファウル打ちから殊勲打のオリックス太田に見る”梵”流…SMBC日本シリーズは高津vs水本、梵…の”広島対決”勝つのはどっちだ?続編


どこにも書かれていない高津vs中嶋、秘話?…ヤクルトとオリックス日本シリーズ勝ったのはマツダスタジアム9勝1敗でリーグ優勝決めたヤクルト… 


※以上、この時事下の関連記事をご覧ください


……

 


広島出身の「日本シリーズ優勝監督」は呉市内でキャンプを張ったことでも知られる南海(1959年、64年日本一)の鶴岡一人監督と、やはり呉市出身の広岡達朗監督(1978年ヤクルトで、82、83年西武で日本一)と合わせて3人。広島市からは第1号となった。


 


ヤクルトが日本一を決めた直後、グラウンドに集まったナインに向けて高津監督が発したひと言、「僕たちはチャンピオンだ」で、選手の涙腺が緩んだと11月29日付の日刊スポーツが報じていた。いい内容だった。


 


ヘッドラインは「高津監督のひと言でナインの涙腺崩壊 一枚岩のチーム作った“言葉の力”」だった。そう、指揮官の言葉力によって、オリックス中嶋監督、水本ヘッド、梵打撃コーチらはあと一歩及ばなかったことになる。


 


ひろスポ!「広島スポーツ100年取材班」は広島市内であれば主に自転車で取材活動する。…なのでこの日(11月29日)は段原地区に行ってみた。そして標高70メートル余りの比治山に上がった。


 


 


もう夕暮れ前でカラスの鳴き声と騒音が入り混じる中、ドングリや落ち葉を踏みながら坂を上がる。「低い山」ではあるが、すぐに手押しに替わる。おそらく高津監督のランニングコースにはもってこい、だっただろう。


 


丘状の山なので上にいけばまた自転車を漕いで移動できる。そこには中沢啓二さんの「はだしのゲン」にも出てくるAtomic Bomb Casualty Commission(ABCC)がある。


 


原子爆弾による傷害の実態を詳細に調査記録するために、広島市への原子爆弾投下の直後にアメリカ合衆国が設置した民間機関で1949年にこの地に開所した。移転話が長らく出ては消え、出ては消えで今なお、この空間には「広島の戦後」がそのまま残されている。


 


案の定「関係者以外は駐車お断わり」となっている。自転車は強い!


 


そしてこの地にかつてあった比治山陸軍墓地(日清戦争、第1次大戦等により広島で亡くなった中国人、フランス人、ドイツ人の遺骨も葬られている)は南側に移され、瀬戸内海が一望できるようになった。すぐ手前を広島市内を東西に貫く国道2号線が走り、その先に広島県湯崎知事の「全棟解体」発言で一躍、世界にその名を広めた「旧陸軍被服支廠」が見える(現在は全棟保存の動き)。そのすぐ左手に高津監督や、鈴木誠也選手に「広島の四番」を引き継いだ新井貴浩さんの母校、広島工がある。


 


「カープ」の名の由来となっている鯉城、広島城は1959年に完成したが、当時の比治山は瀬戸内海に面していた。実際、木々の中を進んでいくと、現在、まさに瀬戸内海に接している宇品山(標高58メートル)と似た匂いがする。専門家ではないので詳細は不明だが、植生など共通点が多いのではないか?






 


 


高津監督が小学6年生だった1980年、広島が古葉監督の下で2年連続日本一になったこの年、広島市は政令指定都市になった。このタイミングで比治山は「芸術公園」として整備されることになり、公園内にモニュメントが置かれた。広島市現代美術館(現在改修工事中)や比治山公園青空図書館(現・広島市立まんが図書館)も建てられ、1993年には、山を貫通する比治山トンネルができた。広島市の比治山公園「平和の丘」基本計画に沿って、整備が今もこの先も続けられる。


 


公園内には被爆者の慰霊碑も設置され、祈りの空間としての意味合いが強い。また広島東洋カープ、松田元オーナー曽祖父でマツダ創業者の松田重次郎氏のブロンズ像がある。岸田文雄第100代内閣総理大臣から遡ること100年以上、広島県初の首相経験者である加藤友三郎(第21代内閣総理大臣、海軍大将)の 石造土台部分も残る。


 


1935年、元帥刀に手をかけて立つ姿の銅像(高さ約4m)が建てられ、戦局悪化で金属類回収令により銅像と由来の碑ともに取り除かれた。ワシントン軍縮会議時のフロックコート姿の銅像が新しく建立されたのは2008年。現在、新サッカースタジアム建設が進む中央公園内に、その姿を見ることができる。


 


「日本一」監督を生んだその土地がどんなパワーを秘め、そこで何を感じてきたか?今なおどんな影響を受けているか?それは高津監督の心の中にしまってあるものであり、外野がどうこう言えるものではない。


 


事実としてあるのは、広島、被爆都市、平和大通り、その東の端に比治山、そのまた東にマツダスタジアム、という戦前と消滅都市と現在を結ぶ横糸と縦糸で織りなす物語であり、結果として今季のレギュラーシーズンの広島−ヤクルト戦の対戦成績がマツダスタジアムではヤクルトの9勝1敗1分けだった。


 


この”物語”、比治山にFM送信設備を持つNHK、あるいは民放局で特番にしてはもらえないだろうか…もちろん高津監督に比治山の麓に立ってもらって…(広島スポーツ100年取材班&田辺一球)