画像は2015年8月、広島ドラゴンフライズが広島パルコ前で実施したPR活動から、街中にバスケ空間を創出してファンクラブメンバーを募り、子どもたちと触れ合った。当時、各クラブは2016年9月スタートのBリーグ1部(B1)入りに向け、様々な活動を展開していた。広島ドラゴンフライズは結果的にはB2からのスタート(チーム力ではなくクラブの経営体力などでB1、B2を振り分け)となった。なお、この日、現場で取材したのはひろスポ!だけ、だった。

 

広島スポーツ100年−

 

軍都として明治の終わりから大正、昭和初期にかけて広島のスポーツが最強だった時代があります。そう、スポーツ王国広島…

 

広島アスリートは日本一を目指し、そして世界とも渡り合いました。かつて広島が「サッカー御三家」と呼ばれたのもそう。広陵、広島商らに代表される「野球王国広島」もそう。そして1928年(昭和3年)のアムステルダム五輪、三段跳びで広島生まれ、広島育ちの織田幹雄さんが日本人初の金メダリストに輝いてからもうすぐ100年…

 

なぜ広島スポーツが盛んになったのか?

 

それは軍都だったから…

 

戦争のために必要な国費が広島に注ぎ込まれ、人とモノも広島に集まり、優秀な教員・指導者の養成が盛んに行われ(それが現在の広島大学など教育県・広島に繋がる)、学生の数も国内有数規模になり、温暖な気候という好条件が重なって一大スポーツ都市が誕生したのです。

 

今年2月、広島の街中、原爆ドームから徒歩10数分で行ける距離にオープンしたエディオンピースウイング広島もまた、広島スポーツを100年スパンで俯瞰した場合、極めて大きなインパクト、波及効果を生む夢のような舞台装置となるでしょう。当然ながら、新たなホームスタジアムを追い風に、サンフレッチェ広島は快進撃を続けています。

 

“平和の翼”は広島スポーツの全てを包み込みます。

 

2024年5月25日、Bリーグのシーズン王者を決める日本生命チャンピオンシップ決勝の第1戦、光と音に包まれた会場の横浜アリーナは7割方、琉球の風に包まれていました。そのせいもあってか、前年王者の「圧」に押され気味となった広島ドラゴンフライズはあっさり先手を許してしまいます。でも、「負けたら終わり」の第2戦では本来の姿を取り戻して1勝1敗のタイに持ち込みました。

 

中1日置いて迎えた28日の第3試合。同日エディオンピースウイング広島で開催されたパブリックビューイングには、広島のバスケファン、ドラゴンフライズブースターおよそ7700人が集結!広島の地から平和都市でクラブ創設10年目を迎えた広島ドラゴンフライズと、やはり「非核・平和沖縄県宣言」の地でバスケ界の強豪クラブとなった琉球ゴールデンキングスの最終決戦に声援を送りました。

 

そして、チャンピオンシップ参加の8クラブで下から2番目の成績だった広島ドラゴンフライズの「下剋上」物語が完結、Bリーグ第5代チャンピオンの誕生となりました。B1昇格を果たした2020−21シーズンには全20クラブ(現在は24クラブ)中最下位だった広島ドラゴンフライズの、この大躍進を予想した関係者は果たしてどれほどいたでしょうか?

 

これまでカープ、サンフレッチェ広島がリーグ優勝や日本一になるたびに、広島の人々やファン、サポーターは興奮と感動に包まれ、勇気をもらい、そして広島を誇りに思ってきました。

 

そこに第3の広島旋風…

 

広島ドラゴンフライズでは、クラブのSDGs活動のひとつとしてBリーグ所属クラブ、車いす女子バスケットボール選手、広島にゆかりのある女子バスケットボール選手や広島県内スポーツ各競技チームの協力の下、平和への願いをつなぐ「#おりづるリレー」を実施して、平和についてのメッセージを伝えたり、選手の作った折り鶴を平和記念公園などに寄贈しています。

 

「軍都」としてのエナジーが街を覆い尽くしていた戦前と、「平和」への祈りとともに日本最強、世界舞台を目指す今と…では、広島の未来はどちらへ向かうのか…

 

スポーツでもっと幸せな広島へ

 

沖縄の街のあちこちで見られる景色が、もうすぐ川と緑の街・広島のあちこちに誕生するはすです。公園や、ちょっとしたスペース、商業施設などに置かれたゴールやバスケットコートに集まるこどもたちの、元気な声が聞こえてきませんか?

※「川風の街、七色の光」は、戦前戦後を通じて広島の人々の生活に深く関わってきたスポーツのある風景を、この街の未来に繋げていくために”そのまま切り取って”残しておく、ひろスポ!連載コーナーです。(田辺一球)

 

※このコラムは広島県内での大学などの授業・講義教材として制作されています。