パリ五輪に向けたウェブ連載「Messages for Paris」(毎週火曜日更新)の第15回は、1936年ベルリン五輪の陸上棒高跳びで西田修平と大江季雄が獲得した銀と銅メダルを2つに割ってつなぎ合わせた「友情のメダル」。教科書にもなった有名なエピソードだが、単純にお互いの健闘をたたえ合った結果、生まれたものではなかった。大切なメダルを傷つけてまで示したかったのは、真摯に競技に向き合った2人の正義と誠実だった。西田さんが生前、残した言葉を振り返りながら、友情のメダルの“真実”を追った。(取材・構成、谷口 隆俊)

**********

 二・二六事件が起きるなど日本ではさらに緊張感が高まってきた昭和11年(1936年)に開催されたベルリン五輪。競泳女子平泳ぎの前畑秀子や陸上三段跳びの田島直人ら日本勢の金メダリストが誕生したが、陸上棒高跳びは印象深いエピソードとともに語り継がれている。

 米国のアール・メドウスが優勝。2位と3位には西田修平、大江季雄が入った。日本勢2人は帰国後、お互いの健闘をたたえて銀と銅のメダルを半分ずつ割って、つなぎ合わせた「友情のメダル」を作った。学校の教科書にも採用されたエピソードだ。

 1991年世界陸上東京大会で選手村村長だった西田さんに、当時その話を聞いた。「そんなに大した話じゃないよ。そんなに褒められるような、いい話ではないんですよ」と一瞬、苦々しい表情を見せた。徐々に柔和な笑顔に戻ったが、取材後には、何か釈然としない、モヤモヤしたものが胸に残った。

 なぜ、あの時、西田さんの笑顔が消えたのだろう―。

 長年抱いていた疑問は、尚美学園大スポーツマネジメント学部の佐野慎輔教授の話を伺って、ようやく解けた。新聞記者として夏冬合わせて5度のオリンピックを取材した同教授は現在、早大スポーツ科学部非常勤講師や公益財団法人『笹川スポーツ財団』の理事を務めている。同財団の「スポーツ 歴史の検証」も担当。西田さんが87歳で亡くなる前年の1996年にインタビューしているが、取材ではいきなり「あれは君らの先輩(である当時のメディア)が美談に仕立てたんや」と“お叱り”を受けたという。西田さんは「あれは抗議のメダルなんや」と言ったという。

 棒高跳びは36年8月5日に行われた。正午からの予選を西田修平、大江季雄、安達清はクリアし、3人は午後4時からの決勝へ。安達は4メートルで脱落(6位入賞)するなど決勝進出16選手は西田、大江ら5人に減った。バーは4メートル25に上がる。雨が降り、決勝が始まった時に17度あった気温は13・4度まで下がり、寒さに震える選手は毛布に体をくるまって試技を待った。

 10万観衆が見守る中、ビル・セフトン、西田が一発でクリア。メドウス、大江も2回でバーを超え、米国人1人が脱落。バーは一気に4メートル35。1回目は全員失敗。メドウスだけが2回目の跳躍でクリアした。「大江コール」「西田コール」に背中を押された2人は3回とも失敗。セフトンもクリアならず、メドウスの金メダルが確定した。残る3人は順位決定の跳躍へ。4メートル25は全員失敗。4メートル15はセフトンがミスし、大江、西田はともにクリア。日本人2人の表彰台が決まった。

 西田さんが佐野教授に明かしたところによると、2人の順位決定前にドイツ人審判員から「君らは日本人同士だから、ここでやめたらどうだ」という提案があったという。「西田さんはその時『あ、これで2人とも2等だ』と思い、納得した」と同教授。5時間以上にわたる激闘が終わった。ところが、翌日の表彰式では西田2位、大江3位となっていた。2人とも銀メダルと思っていた西田さんは「それはおかしい」と納得がいかなかった。五輪に先立ち、国際陸連は『同記録なら、少ない試技数の選手を上位とする』新ルールを決定。五輪後の大会から適用されるはずだったが、その新規定が前倒しされたのではないかと疑われた。

 棒高跳びの表彰式を伝えた報知新聞の8月7日付号外がある。『おお感激の日章旗揚がる』という見出しが躍り、星条旗を挟んだ日の丸2本が競技場にはためく写真と表彰台、大江選手の跳躍写真が掲載されている。表彰式では敬礼するメドウスを挟み、2位の奥側に大江選手、手前の銅メダリストの場所に西田さんが立って写っている。筆者の取材に西田さんは「自分は32年のロス五輪で銀メダル。自分は3位でいいから、銀は大江君に」と考えた…ということになっている。

 西田さんは銅、大江選手は銀メダルを日本に持ち帰った。大江選手は父、兄が医者で、ある日、ドイツ語が読める兄が賞状を見ると大江選手は3位となっていた。実直な兄は「銀メダルは西田さんにお返ししなきゃダメだ」と西田さんを訪ねたが、西田さんは「受け取れない」と拒否したという。2人はともに譲らなかった。結局、メダルを半分に割って、つなぎ合わせようということになり、西田さんの知り合いの宝石店に頼んで銀と銅の〝合体メダル〟ができた。これが世に言う「友情のメダル」だ。

 佐野教授が言う。

 「西田さんは適用されない新ルールで順位を決めたことに腹を立てた。自分たちはまだ、決着がついていないんだということだった。西田さんは、本当に筋が通った人だった。お会いした時は86歳だったけど、背筋もピッと伸びて。なんて言うんだろう…、風格というか。曲がったことが嫌いな人という印象だった」。

 西田さんは間違ったことが許せなかった。「俺たちは同じ2等なんだ。順位をつけるのが間違いなんだ」という思いだった。

 「でもね、やはり、このメダルは友情のメダルだったと思う。西田さんは大江さんをすごくかわいがっていた。大江さんが慶応に入ってからも、自分の弟みたいに一生懸命に教えた。技術も全部伝えた。でも、ベルリンはこういうことになった。じゃあ、次は(40年の)東京五輪で決着だと。西田さんが言うには、東京五輪が開催されていれば、間違いなく大江君が金メダルを取っていただろうって。グングン力をつけている大江さんを見て、西田さんは自分のことみたいに喜んでいた」。

 もちろん、西田さんも東京で優勝を狙っていたが、陸上では織田幹雄、南部忠平らのように五輪初出場で入賞→2度目は優勝という流れがあったことから、西田さんは表彰式では、期待を込めて大江選手に2位の位置を譲っていたのだ。だが、東京五輪は中止となり、大江さんは太平洋戦争開戦直後の41年12月、フィリピン・ルソン島の激闘で命を奪われた。戦争は2人の夢を潰し、大江選手の命を奪った。

筆者が取材した時、西田さんは「大江君のことは本当に残念だった」としみじみ語り、「大江君のぶんまで僕が頑張ろうと思った」と言った。

 佐野教授も「西田さんの思いはずっと変わらなかった。大江君はかわいそうなことをしたと。自分より年の若い彼が先に亡くなって…。だから僕は大江君の分まできちっと陸上界に恩返ししていかなきゃいけないって。だから、あの方は長い間、陸連の役員も務めていた」と話した。

 そもそも、メダルを傷つけるという発想はとんでもないことだろう。「でも、そうじゃない。西田さんは『大江君と自分との間には順番はないんだ』と。2人とも2等賞なんだという意味でのメダルなんだよね。自分たちにこんなことをさせる方が悪いって言っていた。でも、結果的に友情のメダル…落ち着きどころはそれでいいと思う。抗議の意味で始まったが、友情のメダルに昇華したんですよ」

 1951年3月、ニューデリーで第1回アジア大会が行われた。同9日の女子円盤投げでは吉野トヨ子が金メダルを獲得した。吉野は軟らかいグラウンドに足もとが決まらず、なかなか記録を伸ばせずにいた。その時、吉野の窮地打開に一役買ったのが陸上競技のコーチだった西田さんだった。「グラウンドが柔弱で困りましたが、40メートルラインで西田さんが靴を置いて目標を作ってくれました」。吉野は6投目で42メートル10を投げ、見事に優勝した。3月10日付の報知新聞では「西田さん機転の目標」という見出しで、吉野の優勝コメントを紹介している。

 実は、当時40歳だった西田さんは兼任選手として、この大会に出場していた。チーム最年長は、ベルリン五輪から戦争での従軍を経て、15年後のこの時、国際競技会の舞台に立ったのだ。3月8日の棒高跳びは日本の沢田文吉が4メートル11で優勝したが、3メートル61の銅メダルに輝いたのが西田さんだった。

「大江君のぶんまで」。

 その思いを見事に体現したのだ。この銅メダルもまた、西田さんが大江選手に示した「友情のメダル」だった―。

 ◆西田 修平(にしだ・しゅうへい)1910年3月21日、和歌山県生まれ。旧制・和歌山中(現・県立桐蔭高)→早大→日立製作所。日本選手権棒高跳びで29、31〜36年優勝。32年ロス五輪、36年ベルリン五輪でともに銀メダル。56年メルボルン五輪日本代表監督。97年4月、87歳で死去。息子の升平さんは日本初の学士プロゴルファー。

 ◆大江 季雄(おおえ・すえお)1914年8月2日、京都府生まれ。旧制・舞鶴中(現・府立西舞鶴高)→慶大→東洋編物。36年ベルリン五輪棒高跳び銅メダル。37日年日本選手権優勝。39年、陸軍に召集され、27歳だった41年12月24日、フィリピン・ルソン島で戦死。