世界的な「値上げラッシュ」を受けて、さまざまな国で「賃上げラッシュ」が起きている。

 米国のロサンゼルスでは、物価上昇を受けて7月1日から、最低賃金がこれまでの時給15ドルから16.04ドル(約2000円)へと引き上げされる。これは中小零細だからと免除されるようなものではなく、全ての事業所が対象だ。また、米小売り大手ウォルマートは商品を配送する長距離トラック運転手の賃金を一気に25%と大幅に引き上げ、入社1年目の新人でも最大11万ドル(約1400万円)の年収を得られるようにした。

 法定最低賃金に物価スライド制が採用されているフランスでも、5月1日から最低賃金が10.85ユーロ(約1455円)にアップする。「2021年5月からの1年間で5.9%、額面で月当たり91ユーロ(約12万円)引き上げられることになる」(ジェトロビジネス短信 4月20日)という。

 この傾向は欧米ばかりではない。アルゼンチン政府は今年3月、労働組合や経営者団体などと協議して、最低賃金を2カ月ごとに引き上げて最終的には、今年12月までに2月比で45%引き上げることで合意している。ケニアでも5月1日、最低賃金が12%引き上げられた。19年からずっと据え置きが続いていたが、「平均物価上昇率が5.5%に達し、庶民の実質購買力が低下」(ジェトロビジネス短信 5月13日)したことを問題視して踏み切ったという。

 マレーシアでも5月1日、1200〜1000リンギットだった最低賃金が全国一律で1500リンギット(約4万3950円)まで一気に引き上げられている。また、18〜19年と2年連続で最低賃金を引き上げて注目された韓国も同様だ。『中央日報』(5月11日)によれば、ネイバーやカカオなどIT企業では10%前後の賃上げが実施されている。また、現代自動車の労組も昨年の2倍以上となる月16万5200ウォン(約1万6600円)の基本給引き上げを求めている。物価高騰を受けて、大企業を中心にさらに賃上げ圧力が強まっているというのだ。

●安いニッポンはわが道を行く

 しかし、そんな「賃上げラッシュ」という世界的潮流に背を向けて、わが道をいくようなユニークな国もある。その筆頭が、われらが「安いニッポン」だ。

 ご存じのように、日本は他の先進国と比べると、賃金が安い。この30年さまざまな国が賃上げを続けた中で、日本だけはビタッと低賃金が固定化され、昨年にはついに韓国にまで平均給与や1人当たりの労働生産性で抜かれてしまう有様だ。

 そんな「異次元の低賃金」が続く日本なので当然、この世界的な物価上昇にも「異次元の対応」をしている。

 その中でも、海外の人々が衝撃を受けるのは、この問題を政治がまるで他人事のようにスルーしている点だ。諸外国では「物価上昇に合わせて賃上げだ」という感じで、政府などがある程度の強制力をもって大幅賃上げを断行しているのに、日本政府の場合は「賃上げしたら良くないことが起こるのでは」「じっくりと議論を重ねよう」なんてムニャムニャ言っているだけで結局、「何もしない」という方向に落ち着いている。

 例えば4月27日、衆院厚生労働委員会で、日本共産党の宮本徹議員が、後藤茂之厚労相に対して、世界的な「賃上げラッシュ」を引き合いに、日本でも最低賃金を1500円にすべきだと迫ったところ、こんな答えが返ってきた。

 「まずできる限り早期に全国加重平均1000円以上を目指したい」

 物価上昇なんて知ったことかと言わんばかりのマイペースぶりだが、ここまで賃上げに腰が引けているのは、政治家にとって国民の生活などより、よほど大切な「選挙」のためということがある。

 昨年、菅義偉前首相は日本の生産性を向上していくには、最低賃金を着実に引き上げていくべきだということで、政治判断で最低賃金を「全国平均で28円アップ」と過去最大の引き上げを断行した。

 諸外国からすればなんともしょっぱい賃上げだが、日本商工会議所や経済評論家から「そんな高い賃金を払ったら会社は倒産だ」「地方には失業者があふれかえるぞ」「これで日本経済は終わった」などと文句が殺到したのである。

 「28円アップ」だけでも「国賊」扱いである。もしまかり間違って欧米のような1500〜2000円の最低賃金などにしてしまったら、自民党の有力支持団体である日本商工会議所や全国の商工会議所からの「日本を潰す気か!」という嵐のようなブーイングで、政治基盤の弱い岸田文雄首相のクビなどあっという間に飛んでしまうのである。

●“個人の努力”で乗り切る

 このように日本では、「政府による賃上げ」というものが政治力学的に不可能だ。そのため、今起きている世界的な物価上昇も諸外国とまったく異なる「異次元の戦い」をしていくしかない。

 それは一言で言ってしまうと、「賃上げ」という“企業側の努力”ではなく、「我慢」や「節約」という“個人の努力”で乗り切るのだ。その一端が分かるのは、日増しに増えていく以下のようなニュースだ。

 『カギは「通信費」と「食費」 値上げラッシュに耐える節約術 見直しで月数万円もお得に!』(夕刊フジ 5月13日)

 『相次ぐ値上がり!節約術の極意を家計の達人・和田由貴さんが伝授!』(NHK首都圏ナビ 4月25日)

 これまで見てきたように、世界では物価上昇には「賃上げ」で対応していくのが常識だ。労働者からの「賃上げ圧力」が強まって政府もそれを後押しするのだ。実際、米国ではアマゾンやスターバックスで続々と労働組合が結成されており、ニューヨークのアップルストアの従業員などは、なんと時給を20ドルから30ドル(約4000円)に引き上げるように要求している、と『日本経済新聞』(4月19日)が報じている。

 しかし、日本では「大人の事情」があって、自民党は賃上げを後押しできない。労働者がどんなに「物価高で生活できない」と叫んでも、野党がワーワー騒ぐだけでおしまいだ。となると、残された道は「がんばり」しかない。つまり、「物価が上がっていくけれど給料は据え置き」という“実質的賃下げ”という消耗戦を、家計を切り詰めるという節約術や、ムダな出費を控えるという我慢で乗り切るのだ。

 まさしく「欲しがりません、勝つまでは」を地でいく1億総玉砕精神である。窮地に追い込まれたときの日本人の戦い方は、昔も今も基本的に何も変わっていないのだ。

 さて、このように政府の怠慢を指摘すると、自民党支持者の経済評論家やジャーナリストの皆さんから決まって出てくるのが、「日本の賃金を引き上げられないのは経済の問題であって政府批判をしてもしょうがない」という擁護論である。

 そういうみなさんが、日本の賃上げをはばんでいる「犯人」として挙げているものはざっとこんな感じだ。

・消費税が悪い

・円安が悪い

・企業の株主資本主義が悪い

・企業が内部留保をため込んでいるのが悪い

・財務省がケチで財政出動をしないのが悪い

 もちろん、このような側面があることは否定しない。しかし、今起きている世界的な「賃上げラッシュ」を見ていると、「賃上げできない」という結論へと誘導していくために、後付けされた言い訳のような気がしてしまう。

●日本特有の社会システムに問題

 日本人の多くは、これらの経済的な問題を、世界広しといえども日本だけが持っている特殊な問題だと考えている。しかし、消費税が日本よりもバカ高い国や、株主資本主義が強い国なども山ほどある。財政出動していないというが、日本は1990年代に入ってから1000兆円以上の負債を増やしている。それだけすさまじいカネをバラまいても、日本人の賃金がほとんど上がっていない。この事実からも、これが「犯人」でないのは明らかだ。

 拙稿『会社の倒産は減っているのに、なぜ労働者は“幸せ”そうに見えないのか』の中で詳しく解説しているが、日本は「企業保護」があまりに強すぎて、諸外国の中でもダントツに廃業が少ない。世界トップレベルで経営者に甘い国なのだ。

 欧米をみると、起業した会社は5年で半分が倒産する。しかし、日本では18.3%しか潰れない。経営者が有能だからではなく、補助金や税制面で「保護」されているからだ。日本以上に失業者の多い国や、経済がうまくいっていない国もある。

 そのように経済的にはさまざまな事情があっても、ほとんどの国では「賃上げ」をしているのだ。経営者もそれを受け入れて、価格に反映させていく。賃上げにともなってサービスや商品の「価値」をあげていくのだ。そして、それができない経営者は市場から去っていく。そういう「新陳代謝」が経済を成長させる。

 しかし、日本ではそれがない。物価が上昇しても、あれが悪い、これがいかんと言い訳ばかりをしてまったく賃金が上がらない。ということは、実は問題は経済ではなく、「賃上げ」という行為そのものをはばんでいる日本特有の社会システムに問題があると考えるべきではないのか。

 そこでよく労働問題の専門家などが指摘するのが、経済の問題うんぬん以前に、日本にはそもそも「賃上げ」をする基本的なシステムが整備されていないのではという点だ。

 もともと日本社会では「労働組合」にアレルギーを持つ人が多い。「左翼」「反政府デモ」などのイメージがあまりに強烈で、賃上げを望むだけの一般人が気軽に加入できないムードもある。そこに加えて、中小零細企業で働く人たちの賃上げをサポートする機能が「欠落」しているという指摘も多い。

 その代表が「従業員代表制」である。

 これはそれぞれの企業ごと、民主的な手続きで選ばれた従業員代表委員が、経営者側と労働条件をはじめとするさまざまなテーマを協議する制度のことで、ドイツなどの欧州諸国や韓国では法制化されている。

 大企業の場合、労働組合がつくられて労使交渉が行われることもあるが、中小企業の場合は労組など存在しないケースも多い。組合は労働者の権利だと言ったところで、そんな活動をすれば、社員の少ない会社などの場合は、経営者と人間関係も悪くなるからだ。

●「安いニッポン」から脱却できない

 そこでこのような制度を日本でも導入して義務にすれば、これまで経営者から言われるままに働いてきた中小企業の労働者も、賃上げや待遇改善を直接訴えることができるのではないかというわけだ。

 確かにその通りだと思う一方で、筆者はこれを導入したところで、その効果は限定的になってしまうのではないかと危惧している。確かに、日本企業の99.7%は中小企業なので、普通に考えたら「従業員代表制」を法制化すれば、賃上げに結びつくような気もするが、問題はこの中小企業の6割が、「小規模事業者」ということだ。

 小規模事業者の定義をみると、「製造業その他」の場合は従業員20人以下で、「商業・サービス業」の場合は同5人以下である。つまり、いわゆる社長とその家族が経営しているところに、社員が数名という零細企業である。

 想像していただきたい。いくら「従業員代表制」が法制化されたといっても、このような規模の会社で従業員が経営者に対して、「値上げラッシュで生活が厳しいので給料もあげてください」などと交渉ができるだろうか。

 できるわけがない。「ウチも大変だから今は我慢してくれ」の一言で終わりだ。今も日本企業の6割が、このようなやりとりをしているはずだ。

 では、どうするのかというと、政治の力で賃上げを進めていくしかない。これまで中小企業に賃上げのためにバラまいた補助金も結局、会社の資金繰りなどまわされて、労働者には還元されていない。会社の自発的な賃上げを待っていたら、100年経っても「安いニッポン」から脱却できない。

 そういう政治の力による賃金引き上げを断行していく際に重要なのは「公正さ」である。

●これからは「少ない給料の中で」

 冒頭で紹介した米ロサンゼルスのように、社員数名の小規模事業者だからということで特別待遇をするのではなく、一律に最低賃金というボトムラインを引き上げていくのだ。

 物価上昇の影響は大企業だろうが、中小零細企業だろうが変わらない。ならば、それに伴う賃上げも同じようにフェアに実施すべきだ。

 ……ということを言ったところで、先ほども申し上げたように、日本の政治は「国政選挙」という全国の中小企業団体の世話にならないといけないビッグイベントが定期的にあるので、このような取り組みは残念ながら実現しないだろう。

 ただ、それではあまりにも身もフタもない話なので、「中小企業保護が足りない」「消費増をやめればすべて解決だ!」「悪い円安から抜け出せ」など、労働者に淡い期待を抱かせるような「諸悪の根源」が叫ばれているのだ。

 振り返れば、世界的な新型コロナ流行拡大も、日本は医療体制の改革という政治的な問題は棚上げされ、「気を緩めるな」「マスク、手洗いを徹底する日本人は真面目」なんていう “個人のがんばり”で乗り切った。

 それは恐らく今回も変わらない。既に日本国内では「値上げに負けるな!」「こんなすごい節約術がありました!」という声ばかりがあふれている。一方で「企業は賃上げしろ!」「最低賃金を1500円に」なんて欧米のようなことを叫んでいると、「ああ、あの人は……」と冷めた目で見られてしまう。

 値上げラッシュは、まだ続くという。日本人の「忍耐」と「節約」の戦いは、いよいよこれからが正念場だ。

(窪田順生)