●連載「茶道に学ぶ接待・交渉術」

 テレワークにオンライン会議など、新たなスタンダードが登場した現代は、これまでのビジネスの前例だけでは、カバーしきれなくなった時代です。そんな時代には、日本人が古くから狭い茶室で対面していた時にはどんな配慮が求められていたかを参照してみることにも、意味があることでしょう。

 本連載では、現代のビジネスシーンでも応用できる、茶道に伝わる格言をご紹介します。

●足元に気を付けなくなった時代にこそ学びたい「脚下照顧」

 「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」という張り紙が、禅寺の玄関や、トイレなどに掲げられているのをご覧になった方もおられるかと思います。この場合「脚下照顧」とは、「履物を脱ぎ散らかさないでください」という乱雑な脱ぎ方への戒めのメッセージです。

 現代では、オフィスには靴を脱いで上がる必要はありませんし、相手のオフィスを訪れる機会も少なくなってまいりました。そんな時代ではありますが、この「脚下照顧」の本来の意味にさかのぼってみると、実は仕事への姿勢にも通ずる学びがあります。

●他人を非難する前に、自分を顧みる

 履物をきちんとそろえなさいという注意が、「脚下照顧」の意味だけだと考えたら、それは特殊な文脈に依拠しすぎています。足元に常にあるのは履物ではなく、ご自身の足でしょう。

 例えば、夜中に火災警報に驚かされて、屋外に退去する場合を考えてみましょう。貴重品などを持って外に出て、自分は落ち着いて行動したと思っても、足元がはだしだと気付いて初めて、動揺していることを認識する──こんなこともあるかもしれません。

 足元を見ることは、自分のありのままの状態をしっかり見つめることにつながります。「我が身を振り返りなさい」という意味でも「脚下照顧」は使われます。

●禅問答が導く自律的姿勢

 「脚下照顧」という言葉はもともと、「照顧脚下」との語順で発せられたようです。南北朝時代の禅僧・孤峰覚明が、弟子から「禅の極意とは何か」を聞かれた時に、弟子に与えた言葉と伝えられています。

 禅の極意を問う問答は、古くから伝えられているので、南北朝時代の禅僧となると、これまでの問答を踏まえた上で、答えを発していると考えたほうがよさそうです。このため、過去の有名な問答を探っておきましょう。

 唐代の禅僧・趙州(じょうしゅう)の「庭前柏樹子」という答えが、『無門関』という書物に収録されています。師匠と修行僧とのやりとりに南宋時代の禅僧無門慧開の評が付せられたこの書物は、日本にも無門の弟子によってもたらされて普及しました。「羊頭狗肉」の出典も『無門関』です。

 禅の極意は「庭前柏樹子(庭の前の柏の木)」だと説かれた弟子は、自分たちの外側で認識されるようなもの(境)で答えないでください、と問い返します。おそらく、弟子は、内面的な問題としての答えを求めていたのでしょう。それに対して趙州は、自分は決して自分たちの外側で認識されるもの(境)として答えているのではないと返します。それに対して、弟子が問いかけを繰り返すと、趙州は、再び「庭前柏樹子」と答えたというのです。

 この問答は、目の前にあるものを、見えているという風に他律的に捉えるのではなく、自分自身がそのように見ているのだと自律的に認識しなさい、という教えだと解釈できます。

 「問題が起こりました」と報告した部下に対して、「問題を起こしたのだろう」と上司が注意しているようなものです。自分が問題を起こした、と受け止めることで、解決への道筋が生まれてきます。

 上司はなにも、責任を部下に転嫁しようしているのではありません。部下に対して、自分が起こした問題ならば、原因を究明する姿勢を持ってもらいたいと思っているのです。なぜならば、問題に自分事で組んでこそ初めて解決策が導き出されるからです。

●緊急事態に求められるのは

 宋代の禅僧・円悟は、「看脚下」と答えています。兄弟弟子二人と師匠について夜道を歩いている際、「あかりが消えてしまった時には、どうするのか」と問われた時の答えです。この文脈では、円悟の答えは、真っ暗で危ないから、つまずかないように足元をよく見て歩きましょう、という意味に受け止められてきました。

 二人の兄弟弟子の答えは、直訳すれば、「五色の羽を持つ鳳凰が、真っ赤な空に悠然と舞っている」とか、「鉄でできた蛇が荒れ果てた道に横たわっている」とか、禅の世界に詳しい人から見れば、深い含蓄にあふれたものなのかもしれませんが、素人から見ればまったくどう行動すればよいか手掛かりのない答えです。

 「脚下を看よ」と言われたら、誰でも目を足元に向けます。この円悟の答えに、師匠は感心します。夜道であかりが消えてしまうというのは、緊急事態です。緊急事態においては、高邁(こうまい)な理想論よりも、その場ですぐに行動に移せる具体的な提案が評価されたと考えてみたいと思います。

●強調されていった理由

 後代の禅僧である覚明は、これらの有名な問答を熟知した上で、「照顧脚下」と答えたと考えられます。「看護」と使われるように、「看る」の字の意味も「注意して見る」ということです。

 注意して見るという意味は同じでも、普段とは違った言葉の方が、そこに込められた意味をあらためて考えやすいものです。この観点から、「看脚下」よりも「照顧脚下」とした方が、「見るということは、漠然と見るのではなく、自分がしっかり見ることだ」というとニュアンスが伝わりやすいと言えます。覚明の意図は、そこにあったのではないでしょうか。

 さらに、「脚下照顧」と語順が変わるとそれぞれの言葉が強調されます。あえてくだけた形に現代語訳するなら、「足元を、よーくよーく見るんだぞ」という感じでしょうか。

 このように、「脚下照顧」の教えは禅の世界で、意味を強調しつつ伝えられ続けました。その教えの核心は、問題を自分事として受け止め、具体的に行動可能な対応策を提言することです。

●自分事として具体的な一歩を踏み出す

 修行僧の方々が禅語に参ずるのは、「悟り」を得るためですが、俗人である私たちは「悟り」よりも、目の前の問題を解決する方が先決だと考えます。こんな姿勢の私たちにも、この禅語は、ヒントを与えてくれます。

 足元の乱れから心の動揺に気が付くことも、問題に正しく取り組んでいくための前提条件になりましょう。しかし、「脚下照顧」をそれだけに留めるのはもったいないように思われます。

 目の前の問題(庭前柏樹子)は、起こったのではなく、自分たちの側にも何か原因があってそこに存在していると捉えたらどうでしょうか。そこからは、解決に立ち向かうヒントと意欲が湧いてきます。

 そのためには、問題自身を自分の側(脚下)から、よく見つめる必要があります。足を見つめるのは、自分の足が向いている方向が、自分が進むべき方向であり、進んでいくのは自分の足であるからだと考えたらいかがでしょうか。

 さらに、問題を解決しようとする際に、再発防止策までを包み込んだ理想的な解決へと問題をいきなり引き上げるのではなく、まずは、今すぐに着手可能な具体策を見つけるように心掛けることの大切さも、この言葉は教えてくれます。

 「脚下照顧」は、毎日の小さな気付きから、緊急事態への対応までを可能にしてくれる言葉です。

●田中仙堂

田中仙堂 1958年、東京生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。大日本茶道学会会長、公益財団法人三徳庵理事長として茶道文化普及に努める傍ら芸術社会学者として茶道文化を研究、茶の湯文化学会理事。(本名 秀隆)。著書に『茶の湯名言集』(角川ソフィア文庫)、『お茶と権力』(文春新書)、『岡倉天心『茶の本』をよむ』(講談社学術文庫)、『千利休 「天下一」の茶人』(宮帯出版社)『お茶はあこがれ』(書肆フローラ)、『近代茶道の歴史社会学』(思文閣出版)他。