岸田文雄首相は1月23日の施政方針演説で、持続的な賃上げを実現するために、リスキリング(学び直し)による能力向上支援を行うと表明した。
具体的には「GX、DX、スタートアップなどの成長分野に関するスキルを重点的に支援するとともに、企業経由が中心となっている在職者向け支援を、個人への直接支援を中心に見直します。加えて、年齢や性別を問わず、リスキリングから転職まで一気通貫で支援する枠組みも作ります。より長期的な目線での学び直しも支援します」と述べている。
政府は「人への投資」を今後5年間に1兆円に拡大し、リスキリングから転職までを一気通貫で支援する制度などを創設。企業などへの助成金の拡充によって個人・企業にリスキリングを促し、労働市場を整備することで成長産業への転職を促進するのが狙いだ。
もともと少ない日本の職業能力開発予算を増やすことは結構なことであるが、「労働移動の円滑化」に結び付くのかどうか、立ちはだかる障害も少なくない。
●人への投資は成功するか?
そもそも日本の転職市場は諸外国に比べて脆弱だ。過去1年間に雇用されていた人のうち、過去11カ月以内に現在の雇用者の下で働き始めた人の割合を示す「労働移動の円滑度」の国際比較では、英語や米国は10%であるが、日本は半分の5%にすぎない(内閣官房「新しい資本主義実現本部事務局資料(2022年11月)」)。
その上で新しい資本主義実現会議は労働移動が円滑な国ほど賃金上昇率が高いというデータも同時に示しているが、現在の5%を米国並みの10%に引き上げることは容易ではない。
加えて年功型の給与体系が多い日本では中高年層が転職すると収入が3〜4割程度減少するのは半ば常識であり、賃金上昇につながるといわれてもにわかに信じがたい。
リスキリングの質も問われる。リスキリングとは、個人を主体にした「生涯学習」を反復継続しながら長期間にわたって行うリカレントとは違い、企業内の業務上必要な知識やスキルに関する職業能力の再開発を短期間に行うことだ。
つまり新規事業など企業のビジネスモデルに合致するスキル教育を施すことだが、それを国レベルで実現するには、どういうスキルを修得すれば、どの産業の職種で働けるのかという道筋が明確でなければ、個人のリスキリングへの意欲も湧かないだろう。
厚生労働省の幹部は、この点に関して「就職先がどこになるかということが大変重要だと考えている。就職できても非正規の仕事が中心になってくると、なかなか賃上げに結びかない。実際に労働移動が全体の数としてどのくらいになるのか、これから予算を執行していく段階で整理しながら見極めていく」と言うにとどまる。
賃上げにつながらなくても、近年のデジタル化や新規事情などビジネスモデルの変革で新たなスキルの修得が求められつつある。
しかし、政府が「支援します」といっても、そんなに簡単なことではない。最も大きな課題は社内のボリュームゾーンと言われる40〜50代のミドル・シニア層のリスキリングだ。
●今の職場から逃げ出したい? 迷える中高年管理職
すでにコロナ禍の職場でリモートワークやオンライン会議などICTやデジタル技術の進化が急速に進んだ。全員がそろって出社しなくなり、部下とのコミュニケーションが減少し、仕事の指示や進捗状況の確認、さらには部下の育成に頭を抱える管理職も少なくない。中には今の職場から逃げ出したいという中高年管理職も増えているという。
建設関連会社の人事部長は「最近、異動願いを出してくる管理職が増えている」と語る。
「上司を通さずに人事部に異動希望を出せる年齢制限なしの自己申告制度がある。以前は別の部署にチャレンジしたいという40歳ぐらいまでの若い社員が多かった。しかしコロナ禍以降、中高年の社員や課長、中には部長もいる。ヒアリングすると、50歳を過ぎて、自分の強みを生かした得意な仕事と与えられたミッションが合わなくなってきたと言う人、あるいは自分のスキルではお客さんや取引先の要求に応えるのが難しくなったと言う人、部下との関係がうまくいかず、どう指導すればいいのか悩んでいる人もいる」
●モチベーションが高い人はごくわずか
企業にとっては40〜50代のミドル・シニア層のリスキリングと戦力化が不可欠になっている。しかし実際はシニア層に関してはそれほど実施されていない。
パーソル総合研究所の「シニア従業員とその同僚の就労意識に関する定量調査」(2021年5月)によると、シニア従業員(55〜69歳)向けの教育・研修を実施状況について「実施されており、充実している」と回答した人は19.5%、「実施されているが、充実していない」が29.8%。一方「実施されていない」が50.7%と半分超を占めている。
さらに厄介なのが、シニア層は新たなスキル修得しようというモチベーションが高くないことだ。
日本CHO協会が人事担当者を対象に、自社のシニア社員の現状について聞いた質問では「専門性が高く、モチベーションも高く、業務に取り組んでいる」と回答したは9%だった。一方「高い専門性はあるが、モチベーションが低く、停滞している」との回答は18%。「技術的にも、マインド的にも停滞しており、組織に良い影響を与えていない」が6%も存在する(「ミドル・シニアのキャリア自律に関するアンケート」2022年2月)。
企業の現場を見ると、リスキリング一つとっても社員を鼓舞し、戦力化することが容易ではない。政府がリスキリングに巨費を投じても思惑通りに運ぶ保証はない。
●シニアにとって「キャリア自律はしんどい」 政府と企業はどうする?
企業のキャリア開発研修を手掛けるコンサルタントは「政府は企業や個人が学校に通う補助金を配分していくことになるだろうが、結果として異なる業界に本当に移動していくのかは疑問だ。人材業界もミドル・シニアの転職に力を入れようとしているが、国の予算でリスキリングして転職市場が拡大すれば悪いことではない。しかし、大企業で働いてきた人たちがその方向に順応できるのか、かなり難しいのではないか」と指摘する。
キャリア自律が叫ばれているが、長年、組織の指示系統の下で仕事をしてきた人に「キャリア自律しろ、そのためにリスキリングだ」と言っても、正直しんどいと思うシニアも少なくないだろう。シニア層のリスキリングは、支援する企業も本人にも大きな負荷がかかる。
ただし50代であれば70歳まで働くとすれば再雇用を含めて15年近くも働かなくてはいけない。職業人生を全うするには学び直しが不可欠だろう。
大手通信業のキャリア面談を担当する人事担当者はリスキリングに消極的なシニア社員にこうアドバイスしていると話す。
「しんがりでもよいのでついて行きなさいと言っている。一人前になろうとするとハードルが高く、敬遠しがちになる。そうではなく最下位であってもそれなりに役に立てば、まったく行動しなかった人に比べると、数年後にはたとえ最下位でもその人たちよりも前を走っていることになるよと言っている。70歳まで働くのであれば、55歳であれば5年かけて学び、即戦力になろうと目指すのではなく、中の下ぐらいことができるようになれば残りの10年間は活躍できますよと、説得している」
本人のモチベーションがなければリスキリングも進まない。政府が考えるほどリスキリングの実現は甘くはない。
しかし、シニア社員も新しい専門知識やスキルを身につけなければ会社で生き残ることが難しくなるかもしれない。そんな危うい時代が到来している。
●著者プロフィール
溝上憲文(みぞうえ のりふみ)
ジャーナリスト。1958年生まれ。明治大学政治経済学部卒業。月刊誌、週刊誌記者などを経て独立。新聞、雑誌などで経営、人事、雇用、賃金、年金問題を中心テーマとして活躍。『非情の常時リストラ』で日本労働ペンクラブ賞受賞。