「人的資本経営」という言葉を耳にする機会が増えました。ただ「人を大切にする経営」という意味なのであれば、尊い概念ではあるものの目新しい訳ではありません。「当社は利益第一。社員を大切にはしません」などと公言する会社がないように、当然の取り組みという印象さえ受けます。
それなのに昨今、大手企業を中心に、あえて人的資本経営を掲げようとしている背景には、ESG投資への注目があります。財務情報のみならず、Environment(環境)、Social(社会)、Governance(ガバナンス)に配慮した投資活動のことを指し、人的資本はこのうちのSocialに該当することから、投資家向け情報として海外で開示義務化の動きが見られ、日本でも義務付けられることになりました。
また、2020年9月に発表された「人材版伊藤レポート」なども人的資本経営が重視されるきっかけになっています。ただ、いまはジョブ型雇用やリスキリング、キャリア自律など、重要なキーワードではあるものの概念が曖昧(あいまい)なまま“バズワード化”していると感じる雇用労働分野の用語が世の中に溢(あふ)れています。人的資本経営も、最先端感を求める会社がそんなバズワードに飛びついただけのようにも見えなくはありません。
●そもそも「人的資本経営」とは?
経済産業省の公式Webサイトでは、人的資本経営について以下のように定義されています。
「人的資本経営とは、人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方です」
かねてヒト・モノ・カネは経営資源の三大要素と言われており、人材が経営に欠かせない重要な要素であることは常々認識されてきました。ただ、この定義によると、人的資本経営は人材の価値をさらに積極的な位置付けで捉えているようです。また、人材版伊藤レポートには以下の解説が記されています。
「人材は、これまで『人的資源(Human Resource)』と捉えられることが多い。この表現は、『既に持っているものを使う、今あるものを消費する』ということを含意する」
この人的資源の解釈にならうと、人材とは消費の対象であり、コストと位置付けられるものです。一方、経産省の定義によると人材を「資本」として捉える人的資本経営は「中長期的な企業価値向上につなげる」ことを目的としています。つまり、人材をコストと見なすのではなく、価値を生み出すための投資対象と位置付けているのです。以上から整理すると、人材に投資して企業価値を向上させる取り組みが人的資本経営だということになります。
ただ、言葉通りに実践するのは簡単ではありません。それは、財務体力が高い一部大手企業を除き、春闘や最低賃金の交渉が例年一筋縄ではいかないことや、物価上昇に比べて賃金水準の上昇が見劣りしていることなどからも分かります。もし世の中が、人材をコストではなく投資対象と見なしている会社ばかりであれば、賃金相場はもっと軽やかに上昇していくはずです。
人材をコストと見なしてきた会社が人的資本経営を機能させようとするならば、これまで自社が行ってきた経営スタイルを根底から転換させる覚悟が求められます。ただCHRO(最高人事責任者)という役職を設けたり、人材ポートフォリオを作成したりと、表面的にそれらしく形を整えるだけでは不十分です。
●人的資本経営“もどき”3選
それなのに、人的資本経営という言葉がバズワードになって独り歩きすると、実態が伴わないにもかかわらず、流行に乗るために体裁だけ整えようとする“人的資本経営もどき”が次から次へと出現してしまう懸念があります。ケースを3つご紹介します。
1.戦略分断型
まず1つ目は、経営戦略と人材戦略が連動していない「戦略分断型」の人的資本経営もどきです。人材版伊藤レポートは、人的資本経営を実践するポイントとして3つの視点を示しています。
(1)経営戦略と人材戦略の連動
(2)As is(現在の姿)‐To be(目指すべき姿)ギャップの定量把握
(3)人材戦略の実行プロセスを通じた企業文化への定着
筆頭に掲げられているのが、経営戦略と人材戦略の連動です。もし、人材をコストではなく投資対象と見なして人材戦略を立てたとしても、それだけでは人的資本経営を行ったことになりません。人材戦略は経営戦略と連動して初めて効果が生まれ、企業価値の向上につながるものだからです。
例えば、未来に向けて投資するつもりでAI技術者の採用や育成などを人材戦略として掲げたとしても、AIを活用した事業構想が経営戦略の中に盛り込まれていなければ、せっかく人材を採用・育成できたとしても生かされることがなく、宝の持ち腐れで終わってしまいます。
2.戦略偽装型
次に、表向きそれらしい経営戦略と人材戦略を掲げ、人的資本経営を行っているかのように見せる「戦略偽装型」です。「当社にとって人材は宝だ。コストは考えず常に投資の対象と見なしている」と対外的にアピールし、Webサイトなどに掲げられている理念や方針にもたくさんの美辞麗句が並べられているものの、実態はうそ偽りだらけで、人を、売上利益を生み出すための道具としか思っていない質の悪い会社は残念ながら存在します。
人の目を欺(あざむ)くつもりで資料を整えて取り繕えば、第三者が内部監査でも行わない限り外部から見抜くことは極めて困難です。人材版伊藤レポートにある3つの視点に沿って確認したとしても、「人材戦略は経営戦略に基づいて行っている」「今年は新卒〇人、中途〇人など採用計画を立てて進捗(しんちょく)も確認している」「必要な人材を採用し、全社員に定期的に教育を行い、企業文化として浸透している」などという具合に、いかようにも説明できてしまいます。
3.戦略倒れ型
最後3つ目は、経営戦略と人材戦略を連動させたとしても上手く機能しない「戦略倒れ型」です。例えば、AIを使った新規事業を起ち上げるという経営戦略に沿って、AI技術者を採用または育成するという人材戦略を立てていたとしても、何にどう取り組むかといった具体的な業務イメージが定まっていないとスムーズに進めることができません。また、採用・育成した人材に思う存分能力を発揮してもらうためには、役割に応じた権限を付与したり、十分なスペックのパソコンを設置したりするなど職場体制を整えることも必要です。
さらには、そもそも給与などの魅力的な条件を提示できなければ人材を採用することができず、もし採用できたとしても、入社後にエンゲージメント(engagement:積極的な貢献意欲)が下がってしまえば人材は定着しません。エンゲージメントを高めて会社と長く関わり続けたいと思ってもらうためには、組織自体が健全であることはもちろん、ワークライフバランスが取りやすい就業条件など働き手の希望に寄り添った環境整備が不可欠です。もしそれがかなわなければ、戦略倒れの人的資本経営もどきに終わってしまいます。
●経営戦略を変えられないことが命取りに
以上、人的資本経営もどきに該当する3つのケースをご紹介しましたが、もっと根本的な原因によって人的資本経営が上手くいかない場合もあります。それは、経営戦略がそもそもなかったり、あったとしても市場環境とズレていたりする場合です。
経営戦略がないのは論外として、会社が過去の成功体験に縛られてしまっているような場合は、時代の変化に合った刷新ができないまま、当時の経営戦略に固執してしまう状況に陥りがちです。成功体験自体は大切な財産に違いありませんが、組織に急速な変化が求められている時に過去の経営戦略に固執していると、日に日に市場環境とのズレが大きくなっていきます。
テクノロジーの急激な進化や人口減少といった抗いようのない市場環境の大変革期において、これまでの経営戦略を見直さないままで済む会社は皆無に等しいはずです。そして、変革の幅が大きく急激であるほど、少し先の未来さえ正確に予測することが困難になります。
経営戦略とは未来を見越した上で定める会社運営の取り組み予定であり、本来ならばコロコロ変えてはならないものです。しかし、先が見通しづらい市場環境においては、変化に対して柔軟に経営戦略を変えられないことが命取りにさえなりえます。会社が想定していた市場環境がいつの間にか古くなっていることに気づかないままでいると、経営戦略に沿って頑張るほど、時代の流れとズレていってしまう悪循環に陥りかねません。
さらに、時代とズレた経営戦略に固執する会社が、体裁を保つために戦略偽装型の人的資本経営もどきに走ってしまうと最悪です。偽りの姿を騙(かた)れば騙るほど実態が見えづらくなり、あたかも人的資本経営の優等生であるかのように社内外を錯覚させ、経営戦略刷新の機会を逃し続けることになります。
人的資本経営という言葉がバズワードになって独り歩きすると、流行に乗ろうと体裁だけ整えた会社による人的資本経営もどきが増えてしまいます。そして、人的資本経営という言葉のバズワード化はさらに加速していきます。
●時代に合った人的資本経営の追求
しかし、人的資本経営という言葉や概念が、時代が移り変わる中で新たに生みだされた流行のようになってしまうことには違和感を覚えます。なぜなら、人を経営の軸に据え、人材をコストではなく投資対象と見なす考え方は、むしろ日本企業が強みとしてきた伝統的概念だったはずだからです。パナソニック創業者の松下幸之助は、昭和の時代から「企業は人なり」と説いていました。
また、いまさまざまな弊害が指摘されている年功賃金などの人事システムが確立されたのは、高度経済成長期だと言われます。しかし、当時の市場環境は現在とは大きく異なりました。経済が急速な発展途上にありコンスタントに人口も増え続けていたため、会社が長期的な経営戦略を立て、豊富な労働市場の中から厳選採用した新卒社員を終身雇用して囲い込む人材戦略が上手く連動して企業価値が向上していく流れが、人的資本経営を成立させていたのです。
そのため、当時は年々着実に賃金が上がっていく年功賃金などのシステムが、人的資本経営を機能させる上で適していたといえます。しかし、現在は市場環境がガラリと変わって、年功賃金などは人的資本経営を行うシステムとして適さなくなってきました。それなのにシステムの維持に固執し続けてしまうと、肝心な人的資本経営の方が見失われてしまいます。
そう考えると、人的資本経営は新たに生まれた流行語などではなく、原点回帰を表す言葉だといえます。これからの時代に合った人的資本経営の追求。そこには未来に向かって新たな取り組みを進めていく意味に加えて、過去の経営者たちが実践してきた“人を大切にする経営”のあり方を現代に問い直す意味があるのではないでしょうか。
著者:川上敬太郎(ワークスタイル研究家)