令和時代になぜ憲法改正 その4 カラスも行使する集団的自衛権

令和時代になぜ憲法改正 その4 カラスも行使する集団的自衛権

古森義久(ジャーナリスト・麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・日米同盟の片務性への不満が一般の米国民に広がる危険あり。

・護憲派主張の欠陥は国際環境を無視する点。自然の摂理にも反する。

・憲法論議には米国の動向と国際的な視点踏まえる姿勢が不可欠。

 

そして2019年の現在、アメリカ側では日本が憲法を改正して、防衛面で普通の国となることが日米同盟への寄与となり、米側の国益に資するという認識が超党派で定着してきた。

この流れは長年の「日米安保はビンのフタ」という沖縄駐在のアメリカ海兵隊司令官の言葉に象徴された「日本は軍事面で抑えておいたほうがよい」という思考からの脱却だった。その変化の理由はまず国際情勢の変化と米側の負担過剰の意識に加え、同盟パートナーとしての日本への信頼の増大でもあった。

だがアメリカ政府は日本に憲法を改正してほしいとは公言はしない。他国の憲法の扱いに要求をぶつけることの不適切さを認識しての配慮だろう。

▲写真 海自護衛艦「かが」を視察する日米首脳(2019年5月28日 神奈川・横須賀市)出典: Flickr; The White House (Public domain)

しかしアメリカ側の現状への不満はもう明白なのだ。トランプ大統領が日米同盟の不公正さをたびたび指摘するのも、その表れである。同大統領は日本の集団的自衛権の禁止から生じるいまの日米共同防衛面での片務性をもはや有害だとして批判するのだ。その批判を延長すれば日本の現行憲法の特殊性にぶつかることは言を俟たない。

こうした状況はアメリカ側での日米同盟堅持の政策にもやがては影響しかねない。同盟への支持が揺らぎかねない。「日本とのこんな不公正な同盟をなぜ維持するのか」という疑問がアメリカ側一般レベルでも広がる危険さえあるのだ。

そしてさらに危険なのは現在の日米同盟のままではアメリカが中国や北朝鮮との万が一の軍事衝突の際に日本をともに戦う味方として当てにはできないという懸念である。

現実のアメリカの抑止力、戦闘力でも日本が米軍と行動をぴたりと一致させるか否かでは重大な違いがある。要するにいまのままではアメリカからみれば、本当の危機に面したときに日本が完全な仲間なのかどうかがわからないということなのだ。

こうみてくると日本の憲法改正論議ではアメリカの意向はやはり主要な要因とみなさざるをえないことが明確となろう。

日本では憲法改正は「日本を戦争のできる国にさせるからよくない」という主張がある。「平和がなによりも大切だから」という改憲反対のスローガンも聞かれる。いずれも日本国の安全や防衛を無視する情緒的な政治プロパガンダである。

この種の主張に従えば、日本は自国を守るためにも、自国民の生命や生活を守るためにも、物理的な防止策をとってはならないことになる。自衛のための戦いも禁ずると述べているのだ。その通りになれば、どうなるか。

わが日本国はいかに小規模の武装集団によってでも外部から攻撃された場合、あるいは攻撃するぞと脅された場合、一億数千万の国民全体がその外部からの無法集団に対して即時、自動的に全面降伏することになる。なぜなら一切の戦いはいけないからだ。

日本国内の治安を考えても、この「戦争はよくない」式のプロパガンダの虚構は明白である。日本国内で凶悪犯罪が起きて、その犯人が武器を持って抵抗するとき、警察は実力行使での逮捕はできないのだ。なぜなら「戦うことはよくない」からだ。

この点で最近、私が強い説得力を感じさせられたのは昭和天皇のご発言記録だった。この8月に報道された初代宮内庁長官の田島道治氏が記したという昭和天皇発言録に以下のお言葉があったというのだ。

「軍備といっても国として独立する以上必要である。(そのために)憲法を改正すべきだ。(中略)警察も医者も病院もない世の中が理想的だが、病気がある以上、医者は必要だし、乱暴者がある以上、警察も必要だ。侵略者のない世の中には武器はいらぬが、侵略者が人間社会にある以上、軍隊はやむをえず必要だということは残念ながら道理がある」

▲写真 日本国憲法に署名する昭和天皇 (1946年11月3日)出典: Public domain

1951年春、日本の憲法ができて4年ほど、独立を翌年に控えての昭和天皇のご発言だったという。ここで強調された「道理」に反するのがいまの憲法であり、その「道理」を無視するのが、なにがなんでも憲法を変えるなと叫ぶ勢力なのである。

自国を防衛するための物理的な手段での抵抗や抑止をも「危険」だとするいまの護憲勢力の主張は、自然世界のごく単純な道理にも反していると、私はまじめに思う。

護憲勢力は日本が自国防衛のためにも戦争はしてはならないと主張する。独立国家がみずからを守るための物理的な阻止行動を一切、とってはならないというのだ。残された唯一の選択肢は降伏である。自国の放棄である。

この主張は人間の生命の本質に反する政治デマゴーグを思わせる。なぜなら自分の生命に危害が襲う際に自分を守らないのはふつうの人間ではない。生きるという行為はその行為の否定を否定することが不可欠なはずだ。

極端にいえば、命ある人間が自分の肉体にナイフが刺されるそのプロセスを熟視してもそれを黙視するだけで、阻止してはならない、というのがすべての戦いの禁止論なのだ。

人間だけではない。カラスもリスも自分の生命を守るためには戦う。いや自分だけでなく、子を守るために外敵と戦う。冗談ではなく、カラスもリスも個別の自衛権だけでなく、集団的自衛権をも行使するのだ。自分が攻撃されていなくても、愛する子への襲撃を防ぐために戦うのである。

これはもうほぼ冗談の領域だが、先日、朝日新聞にある種のアブラムシの生態についての記事があった。

木の株の内部に生殖するそのアブラムシ集団は外部から外敵が木株に穴を掘って侵入しようとすると、うちの一匹が自分の全身をその穴の出口に貼りつけ、みずからを犠牲にする危険を冒して残りの仲間のアブラムシの生命を救うのだという。

これも自衛の戦いではないか。日本のいわゆる護憲派はアブラムシにも戦いは危険だからそんな抵抗はするなと指示するのだろうか。自己に対する危険を物理的に防ぐこと、つまり戦うことを、すべて事前に禁止するというのはこのように自然の摂理、生命の摂理にも反するのである。

「平和」という言葉を叫ぶことで憲法改正に反対する勢力のさらなる欠陥は国際環境を無視する点だと思う。国家にとっての平和とは国内の治安だけではない。戦争がない状態が平和であれば、問題となる状況は国内の治安ではなく日本と外部勢力との関係となる。

▲写真 首相官邸前でのデモ (2014年6月30日)出典: Flickr; midorisyu

つまり平和か否かは日本にとって外国との武力衝突、あるいは武力での威嚇がない状態が第一義となろう。だから日本を取り巻く国際環境、つまり外国の動向がどうであるかが平和か否かのカギとなるのだ。

だがいま日本国内で「戦争は絶対によくないから改憲はよくない」と主張する側は日本の国外の情勢に触れることがまずない。一国平和主義なのである。

だが現実には平和というのは一国と他国との関係を指す。だから日本の外部の状況を考えない日本の平和というのは矛盾であり、虚構だといえる。

令和の新時代の憲法論議にはアメリカの動向だけでなく、こうした国際的な視点をも踏まえての現実的な姿勢が欠かせないと痛感する次第である。

(シリーズ了。その1、その2、その3。全4回)

 

【註】この記事は日本戦略研究フォーラム季報(2019年10月刊行)に掲載された古森義久氏の論文の転載です。4回にわたって掲載しました。

トップ写真:日米共同統合演習(2016年)出典:防衛省統合幕僚監部ホームページ


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