(歴史家:乃至政彦)

織田信長と『敦盛』

 織田信長といえば、「人間五十年、下天(化天)の内をくらふれハ、夢幻の如く也」という小唄を好んだことが知られている。

 ちなみにこの小唄は幸若舞『敦盛』の一節である。またこれは大河ドラマ『麒麟がくる』や今村翔吾の小説『じんかん』で周知とされつつあることだが、「人間五十年」は「にんげんごじゅうねん」ではなく、「じんかんごじゅうねん」と読む。かつては私も『関東戦国史と御館の乱』(洋泉社歴史新書y・2011)を書いた頃は、そのように誤解してしまっていたが、「人生は五十年ぐらいしかない」という意味で読まれていたが、そうではなく、「人の世でいうと五十年など」とい意味で読む方が正確に近いようだ。

 つまりこれを現代語に訳すなら、「人の世の五十年ごときは、天上界の下方の時間で見るならば、ほんの夢や幻のようなもの」というものだ。

 旧説の解釈にしても、正確な解釈にしても、信長のさわやかな死生観をあらわすものであることは変わりない。

 ゆえにフィクションの信長は、事あるごとに、この小唄を高らかに歌ってみせる。

 黒澤明の『影武者』では、武田信玄に哀悼の意を表するかのようにこの小唄を極限まで美しく披露した。

 そのほか、桶狭間の合戦や本能寺の変など、死を覚悟する直前にこの小唄を口ずさむ。だが、史料を辿ってみると、実はこれ、あまり正確な描写とは言えないようなのだ。

『信長公記』「人間五十年」のくだり諸本比較

 ところで『信長公記』[首巻]にはいくつかの写本があるのだが、そのうちのひとつ「天理本」はほかの写本と相違する点が多く、太田牛一が何らかの意図をもってほかの写本で削ったり足したりしたところが垣間見える特徴がある。

 この天理本とほかの同書には、次の逸話がある。

 信長が戦死を覚悟していた頃、よく幸若舞の一節を好んで歌っていた。

 さて、尾張の天永寺の天沢和尚が関東に下向した折、甲斐の武田信玄のもとへ挨拶に訪れた。

 信玄は和尚に、信長の大将としての器量を尋ねた。すると和尚は、「朝夕に乗馬、鷹狩りをされ、弓・蹴鞠・鉄炮・剣術を稽古している」と答えた。すると、武芸を学ぶ合間に何をしているかも尋ねられ、和尚は『敦盛』の「死なうは一定、しのひ草には何をしよ、その一定かたりのこすよの(みな必ず死ぬ。死んだあとでも思い出されるには、何をするべきか。その人生を語り遺されるためには)」を好んで唄っている様子を伝えた。

 信玄は、そこから信長の思考を読み取り、それほどの心意気ならば武辺に優れた人物なのも納得だと感心した──。

 武士としての覚悟のほどに、好感を持ったのだ。