「近代日本の先駆者」とされる田沼意次と田中角栄、2人の政治家の類似点とは
JBpress5/28(水)11:05
田中角栄との共通点
意次が幕政に参画していた時代を「田沼時代」と言いますが、同時代は天災に見舞われた時代でもありました。日照り、火災、暴風雨、疫病が人々を襲ったのです。こうした天災を「小人が国の政を執っているからだ」と非難する者もいました。天災のみならず、当時は幕府の財政も悪化。年貢増徴策に限界を感じていた意次は「間接税の導入」を図ります。株仲間(問屋などの座)に営業上の権利を認めるが、その代わりとして、
営業に課した租税、献金を幕府に上納させたのです。この政策がどこまで幕府財政の好転に寄与したかには疑問の声もあります。が、一歩一歩でも財政を好転させようと努めていたことは事実であり、その点は評価するべきでしょう。
「田沼時代」には、長崎貿易の拡大や、輸入品(朝鮮人参や薬草ほか)の国産化も更に推奨されます。また、意次は印旛沼の干拓や蝦夷地の開発を推進しようとしました。しかし、これら壮大な事業は、中途に終わってしまいます。意次の政策には、従来の見方に捉われない斬新さや壮大なところがあったと言えましょう。
「日本列島改造論」を発表し、首相の座についた田中角栄氏(1918〜1993)を彷彿とさせます(角栄も今太閤と持て囃された時もありましたが、ロッキード事件で逮捕されたり、闇将軍とあだ名されたりしました)。意次は大胆な政策を推進しようとしますが、幕府の利益を優先させるものとして、反発もありました。
そうした中において、天明4年(1784)、意次の息子で、若年寄を務めていた田沼意知が、江戸城内で、旗本・佐野政言により暗殺されるという事件が起こります。佐野が意知を殺害した理由についてはよく分かっていません。30代の働き盛りの息子を殺されて意次は内心は悲嘆に暮れていたでしょうが、外にそれを現すことはなかったようです「愁傷(嘆き悲しみ)や恐懼(恐れ畏ること)の顔色は少しもなかった」と、江戸時代の随筆『翁草』は記します。同書はそれを「甚だ人情に違う様子」と書きますが、息子の死に際会しても、顔色を変えることなく政務を執る意次は、なかなかの政治家と言えるのではないでしょうか。
さて、天明6年(1786)、意次を重用してきた10代将軍・徳川家治が病没します。将軍の死は暫く秘せられ、その間に意次は老中を罷免、雁間詰に降格となります。意次の失脚は、家治の意志ではなく、反田沼派(一橋家や御三家など)の策謀とも言われています。
その2年後、意次は江戸で死去しますが、その間には、大坂の蔵屋敷、江戸の邸の没収という命令を受けています。また、蟄居・減封という憂き目を見るのです。政治は綺麗事だけではできません。裏面や闇の部分もあります。意次もまたそうした闇の部分にも足を突っ込んでいたでしょうが、その反面、前述したように大胆な政策を推進・考案していました。意次を「近代日本の先駆者」と呼ぶ人もいるほどです。意次や「田沼政治」の見直しも進んでいるのです。
参考文献
・藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房、2007)
・鈴木由紀子『開国前夜 田沼時代の輝き』(新潮社、2010)
(濱田 浩一郎)
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