(歴史学者・倉本 一宏)

多数の処罰者を出し、衰退した伴氏の官人

 後世の往生伝(永観元年〈九八三〉から寛和二年〈九八六〉の間に慶滋保胤(よししげのやすたね)によって撰された『日本往生極楽記』が嚆矢)に類する記事として、『続日本後紀』巻十三の承和十年(八四三)正月甲午条(五日)に載せられた伴友足(とものともたり)の卒伝を紹介しよう。

散位(さんい)従四位上伴宿禰友足が卒去した。友足は延暦二十二年に内舎人に任じられ、弘仁の初年に左衛門大尉となった。弘仁五年に従五位下に叙され、右兵衛佐に拝任された。天長六年に加賀守を兼任し、遠江守・常陸介に遷任し、十月に左衛門佐に任じられた。十年に従四位下を授けられた。友足は生まれつき公平で実直な性格で、物を恐れず、頗る武芸に優れ、最も鷹と犬を好んだ。百済王勝義(くだらのこにきししょうぎ)と時を同じくして狩猟をしたが、気配りのほどは異なっていた。勝義は鹿を獲っても、必ずしもその肉を人に分けなかったが、友足は御贄として天皇に献上し、余りは五位の者たちに配り、一片の肉も残さなかった。このため、五位の者たちが戯れて言ったことには、「閻魔王のところへ引き出され、たとえ友足が地獄へ送られても、我々が救って、必ず脱出させてやるが、誤って勝義が浄土に行くようなことがあっても、我々がまた訴え出て、地獄に堕してやる」と。友足は六十六歳で卒去したが、自ら死期を知り、沐浴して束帯を着し、病も無く生を終えた。有識者はこれを珍しいこととし、評価して言ったことには、「死後の楽土のことがわかっている人物である」と。

 藤原種継(たねつぐ)暗殺事件の家持(やかもち)、承和の変の伴健岑(こわみね)、応天門の変の伴善男(よしお)・中庸(なかつね)父子が首謀者となり、一族も流罪の処罰を受けたりしたために、伴氏(元の大伴〈おおとも〉氏)は没落への道をたどっていったのである。そして参議保平(やすひら)を最後に、議政官に上る官人は出なくなった。

 この伴友足は、宝亀七年(七七六)の生まれ。系譜については、父祖も子孫も不明である。延暦二十二年(八〇三)に二十八歳で内舎人となり、官人社会に足を踏み入れた。二十八歳という年齢は、取りたてて遅い年齢というわけではない。

弘仁年間(八一〇−八二三)初頭とあるから、三十代半ばであろうか、左衛門大尉を経て、弘仁五年(八一四)に三十九歳で従五位下に叙され、右兵衛佐に任じられるなど、嵯峨(さが)天皇の時代には武官を歴任した。軍事氏族としての大伴氏の伝統を踏まえたものであろう。

 なお、弘仁十四年(八二三)に大伴(おおとも)親王が即位して淳和(じゅんな)天皇となるや、大伴氏は氏の名を大伴から伴に改めている。天皇の諱(本名)を避けたものであるが、本来、王族の諱はそれを飼養した乳母氏族の名を冠するものであったから、天皇を含む王族と同じ名の氏族が存在するのは、当然のことであった。それを避けて自らの氏の名を改めるというのも、大伴氏ならではの意識によるものであろう。

 さて、淳和天皇の時代になっても、友足は天長六年(八二九)に五十四歳で左衛門佐に任じられるなど、引き続き武官に任じられたが、この年には、加賀守、遠江守、常陸介と地方官を兼任したりして、左衛門佐の後の武官への任官は確認できない。やはりこの分野でも、藤原氏の進出が顕著になっているのであろう。

 そして散位(位階だけあって官職のない者)のまま、友足は承和十年に六十六歳で卒去した。これだけなら、単に没落しかかっている軍事氏族の中級官人の一生なのであるが、特筆すべきは、その人格とエピソード、そして評判と死亡の様子である。

 卒伝によると、友足の人格は、公平で実直な性格、物を恐れず、武芸に優れ、鷹と犬を好んだとある。エピソードとしては、狩猟をして鹿を獲っても、天皇に献上し、余りは五位の者たち(下僚ということか)に配って、自分の分は残さなかったという。下僚の評判は、死後に友足が地獄へ送られても、我々が必ず脱出させてやるというものであった(反対に浄土に行っても、また地獄に堕してやると言われた百済王勝義は、実際にもそういう人物だったのであろうが、気の毒でならない)。

 そして友足は死に際して、自ら死期を知り、沐浴して束帯を着し、病も無いまま生を終えたという。死後の楽土のことがわかっている人物であると評された。死後にどうなったかが語られていない点が、後世の往生伝とは異なるが、このような死生観が正史に記録されることは、きわめて異例である。これも友足の人徳によるものなのであろう。

 ここには、没落してもなお、「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」と詠った先祖の訓戒を守り続ける姿が現われている。藤原氏の専権に反抗して陰謀をめぐらせては弾圧された先祖の轍を踏むことなく、与えられた歴史条件を、精一杯、そして実直に、大伴氏としての誇りを棄てることなく生きた中級官人の姿があるのである。

(倉本 一宏)