真珠湾攻撃の裏で起きていた旧日本軍の悲惨な負け戦「第二次長沙(ちょうさ)作戦」を知っているだろうか?

 盧溝橋事件(1937年7月7日)をきっかけに火蓋が切られた日中戦争。果てしない泥沼と化したこの戦争の全容は、対米戦の陰に隠れてしまい、あまり知られていない。中国近現代史・日中戦争史の専門家、広中一成氏(愛知大学非常勤講師)は、著書『後期日中戦争 太平洋戦争下の中国戦線』(角川新書)の中で、「アジア太平洋戦争全般を扱ったこれまでの日本の研究所や一般書の多くが、太平洋戦争に記述の大半を割くあまり、同時期の日中戦争を、十分に論じることなく終わっている」と述べる。

 日本軍は中国でどのような作戦を展開していたのか。ここでは、真珠湾攻撃の裏で手痛い敗北を喫した作戦を取り上げよう。1941年12月から翌年1月にかけて行われた「第二次長沙作戦」である。

 作戦を率いたのは、第11軍司令官、阿南惟幾(あなみ・これちか)中将。阿南中将は、「第一次長沙作戦」でいったん占領した後、敵の手に渡ってしまった長沙(湖南省の省都)を再び取り戻すべく、侵攻作戦に燃えていた。しかし悪天候と敵軍の激しい抵抗に阻まれ、結果的に敗走を余儀なくされる。悲惨な作戦の概要を『後期日中戦争』から一部抜粋・編集して紹介する。(JBpress)

どれほど激しい戦いだったのか

 第11軍参謀部がまとめた集計によると、およそ3週間続いた第二次長沙作戦で、日本側が確認した中国軍将兵の遺棄死体は2万8612体、捕虜は1065人を数えた。これに対し、第11軍が出した損害のうち、戦死者は1591人、戦傷者が4412人で、特に、作戦部隊のなかで第3師団の損害がもっとも大きく、戦死者は523人、戦傷者は1419人に上った(「第二次長沙作戦綜合戦果1覧表」、『香港・長沙作戦』所収)。