市川海老蔵から、十三代目を襲名! 百年に一人の逸材といわれながら、数々のスキャンダルで世間をにぎわす問題児が、歌舞伎界の大名跡を継ぐことになった。

11月7日、市川海老蔵改め市川團十郎白猿(44)の十三代目襲名披露公演が、歌舞伎座にて華やかに開幕した。「口上」に続き、厄落としになるといわれる市川家伝来の「にらみ」も披露。さらに家の芸である『勧進帳』『助六』では、團十郎が見えを切るたびに、

「成田屋!」 「十三代目!」

という「大向こう」(客席からの掛け声)が、満員御礼の劇場に響きわたった。

歌舞伎十八番の復活上演といった、市川宗家の古典を守ろうとする一方で、いまの時代にと、型破りな新作を公演し続ける十三代目。伝統を重視してほしいという苦言もあるが、そもそも歌舞伎はなんでもあり、これがオレの“傾き道”と、早世や重圧といった「團十郎の業」を蹴散らす心意気を見せる十三代目團十郎の今までとこれからを紐解いたーー。



■伝統と現代に生きる歌舞伎とのジレンマ。オレ、かぶきたいんですよ! と声をあげる

「十三代目團十郎さんは、海老蔵の時代から、ずっと新しいことに挑戦していますね。絵本や昔話が原作だったりと。ただ、あんまり挑戦しすぎて、『もっと古典をしっかりやってほしい』との声も、歌舞伎界では多く聞かれます」

エッセイストで『海老蔵そして團十郎』(文藝春秋)の著書もある関容子さん(87)はそう語る。改めて、父親の十二代目との会話を思い出すともいう。

「お父さまは、新作を作るならば『歌舞伎として98パーセントは本道を守らなければならない。あとの2パーセントで個性を出すなり新しいことをやればいい』と話されていました。もちろん、息子さんも、歌舞伎十八番の隠れた演目を復活させるなど、家の伝統をしっかり守ってやっていこうとの気持ちでいると思います。だけど一方では、新しいことをやらないと現代では生き残っていけないとのジレンマもあるのでしょうね」

変わることで進化し国際性も保たれると話すのは、古典芸能解説者で、かつてNHKで多くの歌舞伎中継も担当した葛西聖司さん(71)だ。

「私は、チャレンジ大賛成。アニメは観ない世代ですが、市川猿之助さんのいわゆる『ワンピース歌舞伎』は、やるたびに演出を変えていたりしておもしろかった。批判はつきもので、先代の猿之助さんがスーパー歌舞伎を始めたときも、最初はみんな『なんだ』と思いましたが、もともと歌舞伎は何でもありなもの。ただし言っておきたいのは、質の低いものはやってほしくないということ。演出家不在、脚本の不備など、およそ歌舞伎とは思えない作品もまた多かったですから」

その新作歌舞伎を海老蔵時代にともに作ったのが、漫画原作者で『金田一少年の事件簿』などを手がけた樹林伸さん(60)。09年の『石川五右衛門』で原作を担当したことを機に、公私ともに忌憚なく語り合う仲となった。

出会ってすぐのころ、当時の海老蔵が言った。

「樹林さん。歌舞伎って、ガチガチに不自由な表現の芸能って思ってませんか? 違います。歌舞伎って何でもできるんですよ、いちばん自由な芸能かもしれない」

こうして動きだした新作だったが、打ち合わせのなかでは、こんな海老蔵の言葉も聞かれた。

「オレ、かぶきたいんですよ。歌舞伎的なドーン! ってシーンが欲しいんです」

樹林さんは、当時をふり返る。

「これだけを聞くと、歌舞伎の壊し屋というか、やはり伝統より革新を求めているように思えるでしょうが、僕の印象では、彼が求めるのは両方。いや、実は守りたいという気持ちのほうが強いです。新作では、僕もいくつもアイデアを出しましたが、そんなとき海老蔵がよく言ったのが、『それ、歌舞伎じゃないですよ』とのセリフ。所作や間を含めて“歌舞伎的おもしろさ”を、彼ほどわかっている人間はいません」

その行動の背景には、父親の存在があるようだ。実は先代の十二代目團十郎こそチャレンジャーだった、と語るのは葛西さん。

「なにより、お父さんは、10代で親を亡くしたなかで、團十郎家をどう支えていき、一門をどう守っていくかを必死に模索しました。まずそこに、挑む精神があった。加えて海外や地方での野外公演などは、あの昭和の時代に非常に珍しいことで、それが歌舞伎界の活性化にもつながりました。その姿を最も間近で見ていた息子さんは、父のチャレンジ精神に学ぶことも多いと思うんです」

葛西さんも、関さんも、今後の十三代目團十郎に求められるのは「聞く」姿勢ではないかと口をそろえる。

「『コクーン歌舞伎』など、やはり新しいことに挑戦していた中村勘三郎さんでしたが、けっして孤立はしていなかった。それはフレンドリーな性格で、私たちも自由に楽屋に入っていって、会話ができるという雰囲気が常にあったからなんですね。その勘三郎さんをいちばん慕っていたのが、当時の海老蔵さんでした。彼も、勘三郎さんには、教えを請いにいくという姿もよく見られました。つくづく、勘三郎さん、お父さまと、最も信頼でき、ときには苦言も呈してくれる庇護者がわずか3カ月ほどの間に相次いで亡くなったことは、十三代目さんにとっては不幸な出来事だったのではないかと思うんです」

関さんは、続けて、

「彼は、公演中に休演日を設けるなど歌舞伎界の働き方改革を先導したり、埋もれた才ある人材を引き上げるといったことにも積極的に取り組んできました。今後、十三代目團十郎として、歌舞伎界を牽引していく立場となるでしょう。そのときに、多くの先輩方の話に耳を傾け、指導を仰ぐことをやっていただきたい。襲名披露公演ですでに共演されていますから、これもよいきっかけになるのではないでしょうか」

実は、彼は海老蔵時代からすでに変わり始めていたと証言するのは、樹林さんだ。

「結婚、子供の誕生といろいろあったけど、正直、そのころはそんなに変わらなかったんですよ。酒もやっぱり飲み続けていたし。大きく変わったきっかけは、麻央ちゃんが病気になったことですね。以前は一緒に馬鹿騒ぎもしていましたが、特に奥さんを亡くしてからは、酒も、僕らが『たまには気分転換に』とすすめても、一滴も飲まなくなりました」

十二代目夫人で、十三代目には母親となる堀越希実子さんも、著書『成田屋のおくりもの』(マガジンハウス)で、こうつづる。

〈幼いころから、誰にも相談しない、弱音を吐かない子どもでしたから、ひとりで抱えていることも多いでしょう。理解者でもあったパートナーの麻央さんがいなくなった今の息子の悲しみを考えると胸が痛みます〉

17年6月、妻の麻央さんが34歳の若さで亡くなったとき、偶然、樹林さんの作った芝居の公演が行われており、その楽日に楽屋を訪ねたときのこと。

「亡くなって、まだ3日後くらいでしたが、海老蔵は気丈に演じ終えました。楽屋で、二人きりになったとき、彼が僕に言いました。『麻央、観てたと思うよ。劇場にいたのわかったもん、オレ』普通の人が感じないものを、彼は常に感じているんですね」

いつも遠くから見守り、案じてくれる最愛の人の存在がある。このたびの父子のダブル襲名を誰より喜んだのは、天国の麻央さんだったに違いない。



■息子、孫との共演はさらなる宿命。「團十郎の業」を絶つ覚悟は、あとを託す者とともに

「勸玄さんも天才ですね。『外郎売』は6歳の初演時も感嘆しましたが、今度も9歳にして、本当によどみなく言えて。7歳だったお父さんのときも見ましたが、あんなに舌が回っていなかった(笑)。12月には『毛抜』もやりますね。けっこう艶っぽい部分もあり、またお父さんには批判もあるようですが、実はこれもおじいさんの当たり役だったんです。祖父譲りの愛嬌もある勸玄さんに最年少で『毛抜』をあえてやらせようというのは、十三代目となった團十郎さんの『これからも、わが市川一門はかぶいていきます』という、宣言にも思えます」(関さん)

樹林さんも、『石川五右衛門』を作った当初から、まだ存在すらしていなかった「海老蔵の息子」を想定して本を書いたと語る。

「初演では、海老蔵と父親の十二代目團十郎さんに共演してもらいました。そのときから、いずれ海老蔵が團十郎となり、その息子が海老蔵を襲名したら、十三代團十郎の父子で『新・石川五右衛門』をやってほしいと思っていました。これぞ歌舞伎の醍醐味と思いますし、またいずれ実現するでしょう。僕らがカンカンと呼ぶ勸玄君は、お父さんより稽古好きなようですから(笑)。僕はあえて海老蔵と呼びますが、彼はゴシップも含めて、歌舞伎界のトップとして、ずっとPR役を務めてきているのだと思います」

かつては、自ら「歴史的にも團十郎は短命です」と、半ば宿命を受け入れるかのように語っていた十三代目だったが、特に父親になってからは、「團十郎の業」からも解放されたということか、新たな覚悟を口にすることが多くなった。

〈長生きをしなければならない……息子、そしてまだ見ぬ孫との共演は、市川團十郎家に生まれた者として、やらなければいけないこと〉(『文藝春秋』13年6月号)

新たな重責をまとっての、さらなるプレッシャーも気になるところだが、樹林さんは、

「とにかく、子供たちとの関係がサイコーなので安心ですね。うちに遊びに来て、プールでカンカンや麗禾ちゃんと遊んでいるときは、何の憂いもない、すっかりパパの顔ですから」

あとを託すことのできる子供たちとの太い絆を得た十三代目團十郎が、これからの歌舞伎界を、伝統と革新の両輪で、牽引していく姿を見届けたい。