NHK連続テレビ小説『舞いあがれ!』(全125話)が、2023年3月31日(金)についに最終回を迎えた。いやぁ、感無量。半年を通じてひとつのドラマ世界に向き合うと、登場人物たちを家族のように感じる。
赤楚衛二が演じた梅津貴司には、特に思い入れがある。はじめは人生に迷い、苦悩していた青年が短歌の世界にふれ、やがて立派な歌人となる。その過程で、赤楚君は、歌人だけでなく、夫や父親など新しい役柄の顔を見せてくれた。
「イケメンと映画」をこよなく愛する筆者・加賀谷健が、貴司&衛二に感謝を込めて、本作の赤楚衛二を徹底解説する。
舞&貴司に感じる“コンビ愛”
主人公・岩倉舞(福原遥)は、東大阪で営む町工場の長女として生まれ、大切に育てられた。実家の隣には、活気あふれるお好み焼き屋「うめづ」がある。そこの長男・梅津貴司と舞は、幼なじみ。実家が隣同士で、ふたりはいつでも一緒だった。お互いに深く理解し合い、心にふれあう。人と人がつながる理想的な関係性が垣間見える。それも福原遥と赤楚衛二あっての舞&貴司コンビである。舞と貴司にそれぞれ温かで、人好きのいい人間味をにじませた。
ふたりの関係性に感じる“コンビ愛”は、さすが舞台が大阪なだけはある。吉本興業の芸人コンビみたいなわけではないが、とにかくお互いが相方を必要とする強い結びつきが、ほとんど運命的なかけがえのない対を組んでいた。
赤楚君の“一番星感”
そんなふたりを見ていて、ひとつだけもどかしくなることがあった。それは、あくまで幼なじみである舞と貴司が、それ以上の関係性になるのか、どうかということだ。ふたりとも超ピュアな性格だから、間違っても俗物的な恋愛関係にはならないから安心ではある。
それでもこのふたりの関係性が、幼なじみ以上に発展したらいいのになと、だんだん思いたくなる。確かにパイロットを目指していた頃の舞は、航空学校で同期の柏木弘明(目黒蓮)とはからずも一時は恋人関係になったことがある(めめの爽やかさにはズキュンでしたね)。でも貴司との結びつきにはどうしても及ばない気がした。
大学のサークルで人力飛行機を操縦した舞が、パイロットになる夢を抱いたのが、第5週29回のことだった。町はすっかりクリスマスシーズン。勉強の手をとめた舞が窓の外を見る。隣家との距離がほとんどなく、空を見上げても屋根が重なってほんの隙間からしか夜空が見えない。向かいの窓が開いて、貴司がひょっこり顔を出す。夜空はよく見えないが、舞にとっては、ちょうど目線の位置で目の前にいる貴司の顔が一番星のように映る。
優しげな微笑みを浮かべ、暗い部屋の中へ戻っていく赤楚君の“一番星感”がいいなと思った。この場面が、早くも恋人たちを予感する伏線になっていたんだからなぁ(としみじみ)。
恋人たちの窓辺
貴司がどこか影のある感じで暗い部屋に戻っていったのは、会社の先輩からの電話のためだった。ひとりだけ営業成績をあげられず、肉体的にも精神的にも追いつめられ、悲鳴を上げていた貴司は、すぐに会社をやめて放浪の身になる。誰とも連絡を取らず、地元では騒ぎになる。何とか居場所を突き止めた舞が貴司に会いに五島へ行くのが、第7週。歌人を志す貴司の苦悩が描かれ、五島の海が次第に彼の心を解放した。
朝、浜辺に座る貴司が手帳に書き留めた自作の短歌を見せてくれる場面がある。「星たちの 光あつめて 見えてきたこの道をいく 明日の僕は」は、爽やかな海風のような一首だ。
貴司のピュアな心がこの名歌を詠ませた。その後、権威ある短歌賞を受賞した貴司は、第一歌集(『デラシネの日々』)を出版するため、編集者からダメ出しされながらも詩作を続ける。
テーマとして提示されたのが、相聞歌、つまり恋の歌だった。貴司は、首を傾げるものの、赤楚君のあの一番星感が恋の光をチャージする。極め付けが、第19週94回。ある夜、舞が窓を開けると、目の前に貴司の顔が。ひげをはやしていかにも歌人という風貌の貴司の瞳が、ひときわ輝く。あぁ、この目だ。この目が、恋そのものなんだ。ふたりの窓辺が、恋人たちの窓辺として温められた瞬間だ。
短歌は、人の気持ちを一番表現しやすい
ここでひとつ、問いを浮かべてみたい。貴司は、文学の中でも、なぜ小説や文芸批評よりもマイナーと言える短歌を選んだのだろうか?
貴司が憩いの場とした古本屋「デラシネ」の主人・八木巌(又吉直樹)は、彼の短歌について、「心にすっと溶け込む歌」と評した。なるほど、これは、言い得て妙である。貴司の一首を読んだ人が感じるのは、作者の心にふれる手触りだ。短歌は、作者の感情や心のあり様(動き)をかなり繊細に表現する。
筆者の祖父・増谷龍三は、前衛短歌の歌人だった。祖父と親交が深かった現代短歌の巨人・塚本邦雄との往復書簡(塚本は、本作の舞台・東大阪在住だった)が今、手元にある。歌ではなく手紙文ではあるが、祖父に対する愛情を綴るリズムに書き手の心を感じる。日本文学史に名を残す塚本のような偉人でさえ、こんな素朴な気持ちをのぞかせるもの。
そう、歌人は、常に心を見せてくれる。特定の相手を想う心は特に読み手と共有できる。短歌は、人の気持ちを一番表現しやすいのだと思う。貴司が短歌に自(おの)ずと向かった理由もここにある気がする。
キャラクターの心を乗せる“歌人のような俳優”
歌人があるひとりを想うとき、力強い一首ができあがる。それが多くの読み手の「心にすっと溶け込む歌」だ。73回で工場を立て直すことになった舞に貴司が葉書で送った一首「君が行く 新たな道を 照らすよう 千億の星に 頼んでおいた」は、歌集のために用意された300首のうち、唯一の恋の歌だった。歌人の俵万智は、この一首を自身のTwitterで絶賛し、恋するその人のために、「頼んでおいた」という距離感が絶妙だと評した。

結婚式のあとの夜、夫婦団らんの中、貴司は言う。「この幸せ、歌の中に閉じ込めよう思っててな」。
短歌(同時に歌人の言葉)が人の心を表現しやすいのだとすると、赤楚は、演じるキャラクターの心を乗せる俳優だ。迫真の演技とか感情過多な演技のスタイルとは全然違う。役と対話を続けた結果として気持ちを自然と乗せられる。短歌を志す若き青年から夫へ。そして父に。これだけの変化を常に水平のとれた演技を保てたなんて。赤楚の演技スタイルは貴司そのもので、まるで“歌人のような俳優”ではないか。
貴司の「ありがとう」と赤楚君の「ごめん」
職業柄、貴司は、言葉に心を配る。第22週105回で「言葉がいっぱいあんのはな、自分の気持ちにぴったりくる言葉を見つけるためやで」と言った貴司だったが、プロの歌人でさえ、俗に言うスランプはある。幸せな夫婦生活があり、子どもが生まれ、父親になったとき、彼の心は幸せで満たされる一方で短歌が詠めなくなるのだ。結果的に何年も詠めず、ついに舞に短歌をやめようかと相談する。貴司の瞳が潤み、いかにも赤楚君らしい苦悩の表情から「ごめん」がこぼれる(第24週121回)。
貴司の言葉で視聴者が一番多く耳にしたのは、おそらく、あの温かな微笑みまじりの「ありがとう」だ。それがこの場面では「ごめん」になる。ありがとうとごめん。シンプルだからこそ、言葉の原点のような響きがある。最終週で巌を訪ねてパリに赴いた貴司は、狭い部屋の中で自分を探した。貴司にとってこの「ありがとう」が探し続けた言葉なら、「ごめん」は赤楚衛二にしか込められない魂だ。
最終話を見終えた今、歌人を祖父にもち、すくなからず短歌の世界を知る筆者は、歌人、夫、父親とさまざまな表情を毎朝見せてくれた赤楚君に最大の感謝を込めてこう言いたい。「貴司君、ありがとう」。
<文/加賀谷健>
【加賀谷健】
音楽プロダクションで企画プロデュースの傍ら、大学時代から夢中の「イケメンと映画」をテーマにコラムを執筆している。ジャンルを問わない雑食性を活かして「BANGER!!!」他寄稿中。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。Twitter:@1895cu