芸能人の炎上発言がどうも目立つ。生田斗真も例外ではなかったと思うと、ちょっと切ないのが正直なところ。

 SNSは火薬庫である。多くの場合、本人の自覚がないままに発火する。生田のInstagramアカウントでは、出産を間近に不安を伝えた女性ファンへの回答が瞬く間に問題化した。どこがどう問題だったのか?

 イケメン研究をライフワークとする“イケメン・サーチャー”こと、コラムニスト・加賀谷健が考える、生田斗真による“然るべき言葉を待ちたい”と思う理由とは。

あらゆるSNS上で一斉砲火



 5月7日、Instagramで質問を募集した生田斗真が、妊娠9ヶ月の女性ファンが抱く出産への不安に対して「旦那様に無痛おねだりするか」とストーリーズ上で答えた。これが激しい非難を集めている。

 この発言を受けて、XやThreadsなどあらゆるSNS上で生田への一斉砲火状態だ。炎上の最中、生田は8日にストーリーズを更新。「僕の発言で傷つけてしまった方がいるようです。ごめんなさい」と謝罪をしたが、かえって火に油をそそぐことに……。

 生田の投稿はすぐにネット記事としても拡散され、非難轟々の記録は日々増殖している。その一方で「もういいだろ」といった同情の声も上がっているが、いずれの主張にしろ、舌の根が乾かないうちから集中的に反応することの是非を改めて問うておきたい気もする。

曖昧な謝り方がマズかった

 SNS上での批判意見をいくつか確認すると、共通するのは、謝るべきポイントがズレているという指摘だ。内容しかりだが、それ以前にそもそも文頭からちょっとズレてしまったのではないかと思う。

 芸能人が問題発言について謝罪するとき、多く見受けられる表現が、「させてしまったなら」だ。生田も慣例通り、「います」ではなく「いるようです」と曖昧な言い回しの変奏を試みている。断定を避けた謝り方がマズかった。

 謝罪文には続きがある。「費用はかかってしまうけど恐怖心を緩和するためにも、一つの大切な選択だと勉強をしていたので」と分娩への理解とともに「言葉足らず」を強調した。



ファンへの限定的な呼びかけだった

 確かに現在の日本では、女性が自然か無痛か、自由に選択ができる環境が整備されているとは言い難い。そもそも選択肢がなかった時代に出産を経験した世代との認識の違いもあり、無痛を選んだことが「ラクな」お産だと思われてしまう。周囲(社会)からの眼差しがバイアスとなり、本来自由であるはずの出産方法で悩む妊婦がたくさんいる。

 いわゆる「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」(性や身体のことを自分で決め、守ることができる権利)の観点から、生田の回答が「ちゃかしている」と批判されるのは当然だろう。ただし、必ずしもちゃかしているようには見えないのもまた事実。少なくとも生田斗真ファンとの間では。

 そう、今回の批判を勘定に入れていないのは、生田とファンとの信頼関係である。質問はもちろん広く募集したのだろうが、ある程度は限定的なファンへの呼びかけではなかったのか。

ちゃかした発言でないとはいえ……

 ※イメージです(以下、同じ) 自分のファンであるひとりの女性が妊娠で悩む声を聞いて、生田なりに励ましたかったはずだ。その“はず”が「いるようです」の表現につながる。あくまでファンとの間でしか通用しない、ゆるい言論空間だが、フランクな回答例が生田なりの誠意というか、サービス精神だったのかな。

 何でもかんでも「炎上させてやる」といわんばかりの大衆のほうが早急な危うさをはらんでもいる。その上で、ファンとの限定的な空間内での言葉が、必ずしも信頼を担保としない、より広い社会全体でも通用するかというとそうではない。

 彼が影響力を持つ芸能人である以上は、(ちゃかした発言ではないとはいえ)自分の発言がポリコレ的にアウトかどうか、常に知識をアップデートしながら社会的責任を果たす配慮を怠ってはならない。

 ソーシャル(ないしはポリティカル)な発言を芸能人(当然その根っこの芸能界全体)が執拗に避ける日本では、ときに彼らが単純な勉強不足による、意識的な態度を欠いた発言をしてしまうことがある。彼らの周囲に厳密な検閲をできる見識を持った人材がいないこともあって、炎上は監視機能の側面を持っているとも言えるだろう。

 2023年、生田は主演映画『渇水』で、給水制限が発令された街で淡々と停水を執行しながら、それでも等身大に迷ったりもする市の職員を演じた。物語の中ではあんなにソーシャルな行動力をたぎらせた生田だった。

 なのに、言行一致していないかに見える現実の彼は、同作で主演した俳優と同一人物なのだろか? 俳優は演技に徹していれば問題ない。そういう意見もあるかもしれない。でもそれって、社会集団の一員であるはずが、結果的に現実から目を背け、厄介事を回避してきた“クリーンな”日本の芸能システムの悪習なのでは?



まともだった、橋本愛の対応力



 では、今回のように発言が炎上したとき、芸能人はどんな対応をすべきなのだろうか? 過去の事例から学ぶとするならば、橋本愛の対応力はかなりまともだった。

 橋本の場合もやはり発火点は、Instagramのストーリーズ上だった。2023年3月5日、トランスジェンダー女性の公共施設利用について、「そういった場所では体の性に合わせて区分する方がベターかなと思っています」と私見を述べたことが議論を呼んだ。

 同年6月には国会で可決された「LGBT理解増進法」が施行されている。当事者や支援団体からの批判の声が上がっている同法は、皮肉にも「理解増進」という名ばかりの“理解不足”を露呈している。

 その上で橋本の「区分」は、「身体が男性の方」と入浴施設で会えば「警戒してしまう」という女性の立場からの素直な反応だと理解できる。過去には「ハリー・ポッター」シリーズの著者であるJ・K・ローリングがトランスジェンダー女性を装った性犯罪を懸念する発言で大バッシングを受けている。

 生田同様に再度謝意を込めた文を投稿したが、それだけでは済ませなかったのが橋本の意識的な態度を表している。炎上発言を彼女なりに咀嚼し、思考を整理したコラムを『週刊文春』での連載「私の読書日記」に寄稿したのだ。

「私がこれから記述する、極めて短期間で学んだ知識、表現、言葉には、依然として理解の足りていない内容が含まれる恐れが十分ある」と前置きした文頭は、丁寧な対応と配慮である以上に対話を呼びかける意味合いが強い。誤読の余地がないように言葉を紡ぐ橋本の姿勢は、自分の過ちから押し広げた問題提起を意識的に力強く生み出す契機となったのだ。

然るべき言葉を待ちたい

 コタツ記事ライターが恰好の獲物を求めて目を光らせ、なんだか空恐ろしい時代だ。問題発言を含んだ投稿を削除してもなんの対応にもならないことは歴然としている。それは一時的な火消しの対処にもならない。

 SNSユーザーがスクショして手元に証拠を保存することも簡単だ。結果的に火に油を注ぎ、炎上する。だったら、言ってしまったことは潔く残す。そして削除後に一度きりの謝罪で済ませるのではなく、必要なら何度でも言葉を尽くすこと。

 橋本にはそれができて、生田にできないはずがない。橋本は、炎上をきっかけに広い対話を促した。そのための正確かつ誠実な言葉を紡ぐにはそりゃ時間がかかる。

「寛容な社会を!」なんて単純な標語に帰結するのでも、相手の間違いを攻撃的に正すのでもなく、非を認めた相手の次なる言葉をただ待ってみるのはどうだろう(もちろん炎上きっかけでの気づきが前提だが)。

『渇水』には、子どもを連れて出て行った尾野真千子扮する妻に生田扮する夫がアポなしで会いに行く印象的な場面がある。夫は子どもを連れて今から3人で海に行こうと言うが、妻は「今はやめとこうよ」と言い放つ。でもこれは決して夫への攻撃でも拒絶でもない。じりじりとした暑さの中で時間をかけて待つことを選んだ主人公への促しであり、救いの一言だった。

 同作以外にもあらゆる主演作で悩み、まどう葛藤の人々を演じつづけてきた。本人とファン双方にとって、それらを反故にしないためにも、然るべき言葉を待ちたい。その上で炎上ではない、冷静な対話と議論を発火させるのが望ましい。

<文/加賀谷健>

【加賀谷健】
音楽プロダクションで企画プロデュースの傍ら、大学時代から夢中の「イケメンと映画」をテーマにコラムを執筆している。ジャンルを問わない雑食性を活かして「BANGER!!!」他寄稿中。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。Twitter:@1895cu