依存症は“分かってもらえない”病気?

 大リーグで活躍の大谷翔平選手の元通訳・水原一平容疑者の報道を受け、ニュースをはじめ多くのメディアで依存症が取り上げられるようになりました。そして、事件に関して、さまざまなことが判明してきました。それらを受け、水原容疑者を「特異な人格」と評するなど、依存症という病を人格や性格の問題と混同するコメントなども散見します。SNSでは、

「ギャンブル依存症は病気です」
「依存症は、誰でも陥る可能性あるのです」
「人格の問題ではありません。 ギャンブル依存症の人格否定をやめて頂きたい」
「ギャンブル依存症の身内がいるので非常に同意。人格問題で片付けるものではない」

など、批判に対する異論を唱えるコメントが相次ぎました。このように、「間違っている」と声をあげてくれる人もいるのですが、「依存症に関する理解」はまだまだ追いついていないといえるでしょう。

 元アルコール依存症者であり、心理カウンセラーの佐藤城人さんは“依存症は「分かってもらえない病気」だ”と言います。 今回は、佐藤さんに「依存症は理解されない病」について解説していただきました。

 

努力が誤った方向に進んでしまう

分かってもらうための《努力》が悪循環を生む

 今回の水原容疑者の賭博問題に関しては、犯罪である以上、罪を償う必要はあります。また、迷惑をかけた以上、関係者への謝罪も必要です。ただ、心理カウンセラーとして、そして当事者として、「人格や性格と、病は分けて捉えて欲しい」 と強く思います。

 ただ、正しく理解して欲しいと願うあまりの努力が、かえって空回りしてしまうケースもあります。この点は、私たち依存症者が反省をし、かつ気をつけた方が良い点でもあります。

「依存症者と病気を分けて捉えること」

この理解は、本人にも周囲の人にも必要です。

 本人の場合、別物と分かるからこそ、「じゃあ、頑張って取り組んでみよう」となります。(別物と分かることによって、「俺のせいではない」と開き直る人もいますが……)

 家族の場合は、別物と分かるからこそ、これまでの心労、苦労が報われます。過去受けてきた裏切りや迷惑の数々が、本人の人格が原因ではないと分かるのですから。

 しかし、周囲の人からは、「なんで? 人格や性格が原因なんでしょ」と言われます(もちろん理解してくださる人も多いです)。

 実際に依存症から回復することによって、それまでの本人の悪い面は、その多くが払拭されます。そこで、「あくまでも病気だからなんです」とお伝えしても、なかなか分かってもらえません。もちろん、諦めずに理解してもらうための努力は必要です。ただ、その努力が誤った方向に進んでしまうパターンがあります。それは大きく次の3つのパターンです。

(1)「あなたの発言は間違っています」と他者を否定する努力

 他者とは、依存症以外の人のことです。依存症に関して、「好きでギャンブルに打ち込んでいるだけだ」とか、「やめられないのは、本人の意志が弱いからだ」のように性格と関連付けられる発言があります。

 これに対して、「そうではない」と説得したり、反論したりするケースです。この際、「あなたの認識は間違っている」というケンカ腰の論調だと、ギスギスしてしまいお互いの理解は生まれにくくなります。

(2)依存症は、「こんだけしんどいんだよ」と周囲に同意や理解を求める努力

 依存症者の場合、その多くは幼少期に機能不全家族に育つなど、幾つかの要因があります。しかし、過去を持ち出しても、「甘い」「他にも似た経験をしている人は大勢いる」と指摘されて終わりです。当事者にとっては忘れられない過去であっても、周囲から見れば「過去は過去」に過ぎないんです。

※機能不全家族:親が親としての機能を果たしていない家族。子どもが子どもらしい成長を阻害されている家族のこと。

(3)どうせ、分かってもらえないんだよ。 と世間に背を向けるための努力

 この発想では、孤立無援になります。人間は一人で生きていけるほど強くはありません。ますます依存の対象(ギャンブルや酒・薬物など)に逃げるだけで、解決策にはなりません。

 これらの依存症者の努力が、ますますの誤解や孤立を招いてしまうのです。では、どのような努力ならば、理解してもらえるのでしょうか?

 答えは、極めてシンプルなんです。

「分かって欲しい」というこだわりを捨てる

理解してもらうための本当の「努力」とは

 ここまで、別物と分けることの必要性と、これを理解してもらうための努力がかえって空回りしがちなことをお伝えしてきました。とはいえ私自身も、人格の問題と捉えたり、虚言癖と捉えたりする発言を目にすると、もう少し調べて欲しいなと思ってしまいます。

 この私の発想も、前述の(1)と同じですね。 他者を否定しても、何もはじまりません。「分かってもらえない病気」、それが依存症です。 私は32歳のときに精神科に入院しました。当初は、冒頭で述べたように、(1)や(2)、(3)の努力を繰り返していました。誤った努力を続けている以上、なかなか回復できませんでした。悶々としていたんですね。「どうして、理解してもらえないのだろう」「こんなに自分は理解してもらう努力をしているのに……」と。

 依存症と診断されて3年目のある日、ふと気づいたんです。「依存症は病気」であること、これを証明したかったら、自分がエビデンスになるしかない、自分がやめて、証明するしかない、と。

あの日以来、酒をやめ、依存症から抜け出すことができました。

 ポイントは「分かって欲しい」というこだわりを捨てたこと、です。つまり、「分かってもらえないのなら、分かってもらいたいと願うことをやめること」にしたんです。このように考えたら、妙に肩の力が抜けたんですね。

さいごに

 依存症者は幼少期に機能不全家族に育ちます。その結果、愛情を知らない、ないしは不足のまま大人になります。この愛情不足が自分を認めて欲しい「承認欲求」となります。そして、「欲しい欲しい」と何かに依存します。分かって欲しいも同じ発想で、「分かって欲しいという願いに依存している」ともいえます。そこで、「その願い(欲求)をやめる」発想が必要なんですね。

 依存症は完治のない病です。いつ再発してもおかしくはありません。これは薬物依存の人が再犯を繰り返すことからも分かります。私自身もこの先生涯の努力は必要でしょう。ただし、分かってもらえないと嘆いたり、他者を批判したりすることが努力ではありません。 本当の努力とは、肩の力を抜き真っ当な人生を歩むこと。それが一番の近道です。

(佐藤城人(さとう・しろと))