常に変わりゆく時代の群像を一番間近に見続けてきた職業、それはもしかしたらタクシー運転手かもしれません。小さな車内で交わされる、ほんのいっときの人間模様。喜怒哀楽や幸不幸を乗せて、昭和から平成、令和へと都会を駆けた元ドライバーの筆者が、その一端をお話しします。

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タクシー業界の「お化け客」とは何か?

 どんな場所にも業界にも七不思議とか都市伝説とかの類は存在するものです。タクシーにも「お化け客」と呼ばれる乗客がいます。本物の幽霊じゃなく、信じられないような長距離を頼んでくる乗客のこと。筆者がこれまで乗せた一番の長距離をお話しします。

 もう20年も前のことです。その日、東京は梅雨明けの快晴で、午前10時頃に筆者の車は日比谷通を西新橋に向けて、のんびり流し営業をしていました。都心の千代田区内に位置する警察署前に差し掛かったところ、警察官が二人して筆者を指さし「止まれ、止まれ」と合図をしているではありませんか。

 特に違反をしたわけでもないので、見なかったことにして走り抜けようかと一瞬思いましたが、二人は笛まで吹いて車の前で両手を広げるのです。

 チェッ。付いてないな。何も悪いことしてないのに。と思いきや、

「運転手さん、ごめんごめん。あのね、お客さんをお願いできませんか。行き先は少し遠いすが」

「あっ、お客さんですか? もちろんいいですよ、どうぞどうぞ」

 筆者は勘違いをしたようでした。職業柄、お巡りさんに止められるというのは、決していい気持ちではありません。まして皇居外苑を管轄に持つ署の前です。場所が場所ですから狼狽(ろうばい)しましたが、取り越し苦労だったようです。

 それにしても「少し遠い」とは、どこまで行く客なのか。それにわざわざ警察官が出てきてタクシーを止めるとは、何か事情があるのだろうか。

東京の街を行くタクシーのイメージ

「静岡の浜名湖まで行ってもらえませんか?」

……などと思案しながら2、3分ばかり署の玄関前で待っていると、先ほどの警察官に促されるように、50代前後の両親と真ん中に挟まれて高校生くらいの少年の3人が、後部座席に乗ってきました。少年はふくれっ面です。

 父親が「静岡の浜名湖まで行ってもらえませんか?」。母親も筆者に頭をペコペコしています。浜名湖……!!? 静岡の西の端だ。もはや愛知県に近い。東京都心から浜名湖、とんでもなく遠いぞ……。

 驚いたと同時に、冗談を言っているのではと思いました。

「それでしたら新幹線の方が速いし、料金も安いですよ……? タクシーよりずっと……」

 尋ねると、父親がちょっと言いにくそうに事情を話し始めたのです。

「いや、こいつが家出して警察に保護されてね。もし途中で逃げられたら、またことだと思いまして、仕方なくタクシーで帰るんです」

「そ、そうですか。あの……、料金がけっこうな額になりますが……」
「はい。多めに掛かっても仕方がないです」
「か、かしこまりました……!」

 筆者は妙に興奮してしまい、どうも舌がうまく回りません。先方の事情は複雑のようですが、タクシー運転手の正直な本音としては、売上の大きさに武者震いがしました。

 こちらも商売なので分かっていただけたらと思いますが、東京―静岡(ほぼ愛知)なんて鳥肌ものの長距離です。ハンドルを握って苦節ウン十年、過去に経験したことのない“大物”でした。会社の社長から同僚の仲間たちまで思い浮かべ、どうだ、やったぞー! と内心は浮き足立っていました。

 このような長距離客を乗せる場合は、必ずまずは会社に連絡することになっています。それで、筆者は同区内の某インター近くに止め、運行係に電話をしました。

運行係が絶句するほどの長距離

「それは遠いねえ。10年に1度あるかないか、ですよ。安全運転でお送りください。300kmはあるから、お客さんに断ってまずは燃料を満タンにしてください。帰りまで何があるか分からないから、足柄サービスエリアでガスを入れた方がいい。ここは東名(高速)下り方向にあるからね、行く方向です。東名でガス欠なんてしたら、目も当てられないですよ」

 テキパキと話を進める運行係。彼はあと二つ、筆者に忘れてはならない指示を出しました。そしていよいよ、東京から浜名湖までの長距離運行が始まるのでした。

(後編に続く)

(橋本英男)