岸田一族による官邸での「大はしゃぎ」に対して世間の批判の声は厳しく、庶民の感覚がわからない世襲議員の岸田首相は、慌てて長男で首相秘書官の翔太郎氏を更迭しました。一連の騒動を「父子バカ」と評すのは、辛口評論家として知られる佐高信さん。今回のメルマガ『佐高信の筆刀両断』では、大正時代に“平民宰相”と呼ばれた原敬元首相について、その息子が語った逸話を紹介。狭量だと思った父の言動が、実は重い公職にある者としての信念と覚悟によるものだったとの話に、岸田首相とはあまりに違う姿を見ています。

父子鷹ならぬ父子バカ

5月27日付の『朝日新聞』に「どれだけの恥か気付かぬ親子かな」という川柳が載っていた。岸田の息子の論外の首相公邸での忘年会騒ぎを指してである。「世襲です泣いて馬謖を斬りませぬ」ともあったが、最初、岸田は首相秘書官の翔太郎を更迭しないつもりだった。

平民宰相の異名をとった原敬の養子の奎一郎が父について書いている。

奎一郎が小学生の頃に、隣に同年輩の遊び友だちがいて、彼の父親が国技館の相撲を見に行くのに誘ってくれた。奎一郎は行きたくて、母親に尋ねたら、「いいと思うが、一応父親に訊いてみる」。すると敬は「隣家の主人は何をする人か」と問い、「商人です」と答えると、「断れ」と言われた。

それで母親は「今日は都合が悪いから折角ですが御一緒できませんと言って断りなさい」と奎一郎に伝えたという。残念に思った奎一郎の回想を引く。

「子供心に僕は父を狭量だと思わざるを得なかったが、そのとき僕は母から政治家としての父が実業家から不当な恩恵をこうむることを極度に避けなければならないという意味のことを説明されてやや納得した」

書き写していて、原と岸田のあまりの違いに空しくなる。岸田自身も二世だから、公職私有を当然のように思っているのだろう。

原の遺言の中に、ある人から贈られた数万円(当時の金額である)の銀行預金を、自分の没後直ちに返却しろという一項があった。原は何度も断ったのだが、どうしてもと言われてやむをえず手元に置いたが、この人のために何らかの尽力をした覚えがなく、受納すべき理由がないから、没後直ちに返すべしというのだった。

奎一郎は「僕が遺言状のこの一節に接して、子供のとき隣家の一行に加われなかった理由を、今更の様に思いおこしたことは言うまでもない」と記している。

原が遺言状を書いたのは、原の身辺を狙う者があるという警報がしきりに伝えられる頃だった。原は護衛を極度に忌避した。「十重二十重にしていたって、やられる時にはやられる。護衛などしなくても、やられない時にはやられない」と常々、原は言っていた。

奎一郎はイギリスに留学したが、母親に、「イギリスから帰って来たら、お父さんは僕を秘書官にでもして下さるつもりかな」と尋ねると、彼女は笑って言った。「お前さんなんかにお父さんの秘書官がつとまるものか」。

浜口雄幸も犬養毅も軍人政治に待ったをかける軍縮を推進して凶弾に倒れた。軍拡の岸田との決定的な違いである。

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