「選手にどんどん有名になってもらいたい。それが子どもたちに夢を与えることにつながる。とにかく選手が有名になるようにプロモーションをしていきたい」

 京都市内にあるプロバスケットボールBリーグ1部・京都ハンナリーズの運営会社事務所。個性的な黒縁丸眼鏡に丸刈りの青年が発する言葉は、熱を帯びる。 

 昨年5月に入社し、広報・興行担当マネジャーに就いた笠川真一朗さん(28)=京都市南区。春夏通算75度の甲子園出場を誇る龍谷大平安高(下京区)出身で、記録員として甲子園の土を踏んだ。その後芸人になり、テレビの人気バラエティー番組にも出演した異色の経歴を持つ。なぜそんな彼がプロバスケットボールの世界に飛び込んだのか。

 笠川さんはマネジャーをするために高校球界屈指の名門に入った。純白のユニフォームに刻まれた「HEIAN」の5文字は重たく、原田英彦監督(62)は礼儀やマナーに厳しいことで知られる。マネジャーはチーム状態を把握し、グラウンドに来訪するメディアや野球関係者へのもてなしも任される。笠川さんは「僕は平安で人としての振る舞いを学んだ。報告、連絡、相談…。監督からは、何か聞かれたらいつでも答えられるようにしておけと言われていました」と振り返る。

 3年間務めあげ、1年と3年の夏にチームは甲子園に出場した。学生服姿でベンチに入り、幼い頃からの夢の舞台を踏んだ。

 原田監督は、奈良県生駒市の実家を離れて1人で下宿する笠川さんを気に掛け、練習を終えた夜、近くのラーメン店に何度か連れ出した。「笠川はチームのことをよく考えていた人間。平安のマネジャーはチームの顔ですから非常に厳しく接しました」と懐かしむ。

 笠川さんは東都大学野球リーグの立正大でも4年間マネジャーを続け、東京・銀座の百貨店「松屋銀座」に就職した。食品部に配属され、仕入れや接客、宣伝媒体の作成に携わった。職場に不満はなかったが、入社2年目に周囲があっと驚く行動を起こす。

 「芸人になりたい」

 大手芸能事務所が運営する都内のタレント養成所の門をたたいた。「小さい頃から、面白い、面白いと言われてきて。よくよく考えたら、1回芸人になって、道を踏み外してみてもいいんじゃないかと」

 プロの芸人になるには、過酷な生存競争を勝ち抜かねばならなかった。授業は週2回。発声や演技、ダンスなど人前に上がるうえでの基礎を学び、バラエティー番組の作家にネタを見せて批評してもらう。年に数回、養成所のステージで行われるライブは「戦場でした」。観客の投票で優勝が決まり、実績を残したコンビだけがランクアップでき、デビューを勝ち取れる。

 ツッコミで台本を書く笠川さんが九州出身のボケの男性と組んだ「豚骨ホームラン」は大当たりした。1年の最後に行われた卒業ライブでも優勝し、事務所と契約を結んだ。

 デビューからわずか2カ月後。初のテレビ出演が決まる。それが、人気番組の「アメトーーク!」だった。「高校野球大好き芸人」が熱い思いやこだわりを、おもしろおかしく語り合う回で、新人芸人が売れっ子の芸人とひな壇に並ぶことになった。

 「目立つのは選手や。でも社会に出たらひっくり返せる瞬間が来る。我慢強く頑張れ」。高校時代、原田監督にずっと掛けられていた言葉がよみがえり、高揚感を抑えられなかった。

「ガチガチに緊張して」臨んだ番組の収録。もちろん、明かしたのは平安での思い出。冬場の基礎練習でボールをグラブの手のひら部分で正しく捕球するため、グラブのネットを外して使われる「網なしグラブ」を紹介した。うまく捕球できなければ自分の体にボールが当たる−。漫画の世界にあるような実話をネタにして、笑いを取った。

 しかし間近で見せつけられた先輩芸人の力量は想像の域を超えていた。「野球で無名の公立校が地方大会で勝ち上がっていったけど、強豪校と対戦して、次元の違いを見せつけられたような気分。無理やな、追いつけへんな、と思いました」

 コンビは1年足らずで解散。ただ野球への愛情と知識が世に伝わり、野球関連のイベントや番組で声がかかるようになった。そうこうするうちに、全国紙が新たに創設するウェブメディアから「記事を書いてみないか」と誘われた。

 元々本を読んだりするのは好きで、野球部のマネジャー時代は野球ノートや練習報告書をこまめに提出していた。芸人時代は漫才の台本を書いていた。平安野球部のつながりで西武の源田壮亮選手らプロ野球選手との親交も生まれていた。大好きなスポーツを追い続けたいと、フリーのライターに転身した。

 東京を離れ、関西に戻っていた2021年10月。「プロのバスケットボールチームが京都にあるらしい」「Bリーグって面白いらしい」。友人に誘われ、京都ハンナリーズの試合を見に行った。初めてのバスケットボール観戦。場内の迫力ある演出に驚き、野球とは違い常にボールと人が動く競技の妙味を感じた。それからは、繰り返し会場に足を運んだ。

 年明け、試合会場で球団幹部と話す機会に恵まれた。これまでの経歴やフリーライターの実績を知ってくれていた。「チームで働いてみないか」と突然の誘いを受けた。

 「僕は平安に来て、京都という街に人生を変えてもらった。京都はなかなかプロスポーツが根付かない土地だと思うけど、難しい状況を選んだ方が自分のためになる。京都に恩返しをしたい」と挑戦を決めた。

 京都ハンナリーズは昨季クラブワーストの16連敗を喫し、西地区9位と低迷した。親会社と経営体制も変わり、潤沢な予算を抱える強豪クラブに比べて、苦しいチーム編成を余儀なくされている。昨年10月に開幕した今季も負けが先行し、チームや選手の魅力を発信する広報として歯がゆさが募る。

 追い込まれてからが勝負であり、苦しい時にいかに逆境を受け入れるか−。それが、笠川さんが思う「平安魂」だ。高校2年の時、チームがうまくいかず悩んでいる時に監督から掛けられた言葉が、苦しいとき、つらいときに、いつもふと頭をよぎる。

 「人のために、というのは本心じゃないよ。自分のために頑張りなさい。それが人のため、チームのためになる。自分のためと思って頑張れ」

 高校の時と同じように、また「裏方」に回った。とにかく自分が今できることをする。そうすれば、京都のスポーツの盛り上がりにつながるのではないか。「チームが大きくなって、監督の耳に自然に入って、いつかバスケを見に来てもらえたらうれしいですね」

 原田監督はOBのネットワークを通じて教え子たちの動向を入手し、いつまでも気にかけている。「笠川は高校と大学で7年間マネジャーをして人との接し方は得意だと思う。その長所をプロスポーツの現場で発揮し、腰を落ち着けて仕事をしてほしい」とエールを送った。

(まいどなニュース/京都新聞)