芝生の広がる鹿児島市中央町の共研公園に、傷ついた古い石造りの門柱が2本、空に向かって突き出している。市立女子興業学校(現鹿児島女子高校)のもので生徒13人が焼夷(しょうい)弾による火災などで命を落とした。

 大空襲のあった1945年6月17日から始まる、同校の「教務日誌」が残っている。

 「午後十一時十分頃麑市未曽有ノ大空襲アリ」
 「寄宿舎ニハ當日防空要員五十四名ノ生徒在泊セシガ、之等モ大多数辛ウジテ逃ル、サレド十名ニ余ル死傷者ヲ出セシ…」

 火傷生徒や行方不明者として名前が列記。21日には「焼死生徒ノ遺骨ヲ拾ヒ、夫々適当ナル壺ニ納メ、校庭西寄防空壕内ニ安置ス(午後一時)」と記す。

 惨禍から1週間ほどは「オ骨拾ヒ」「オ骨受取」などの文字が目立つ。教え子の遺骨を拾う教師の姿が浮かぶ。無念の作業を淡々とつづった文面は、戦争の悲惨さを一層浮き彫りにする。わが子の安否を気遣う生徒の家族が度々、学校を訪ねて来る。「○○ノ父来校、オ骨ヲ受取ラル」

 共研公園には、被災の歴史を伝える石碑や門柱と共に、当時の石畳や石塀も残されている。

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 2000人を超える死者を出したとされる鹿児島大空襲から17日で79年。見渡す限りの焦土となった古里の記憶は、時代の流れと共に薄れつつある。高層ビルが立ち並び、都市へと生まれ変わった街を歩き、今なお残る空襲の爪痕を探した。