百想芸術大賞は、テレビやスクリーン、舞台を対象に評価するという点で“韓国のゴールデン・グローブ賞”とも呼ばれている。本家同様の娯楽性と華やかさはもちろんのこと、候補作や俳優陣は、毎年社会性の強い作品が選ばれる傾向がある。これまで韓国のエンターテイナーたちが、常に権威や制度と戦いながら自らの表現や芸術を獲得してきた背景を考えれば、韓国エンタメの精神が特に反映される芸術賞と言ってもよいだろう。Netflixなどの配信サービスの隆盛でKーコンテンツが世界中で愛されるようになった今、以前にも増してこの賞の存在感が増しているようだ。

第59回目となった今年は、例年以上にドラマも映画も熾烈な賞レースだった。しかしとかく競争社会と呼ばれる韓国にあって、俳優と製作者たちは、栄冠を争うばかりが芸術賞の存在意義では無いとばかりに、現実に眼差しを向けた言葉とパフォーマンスを披露していた。今回はTV部門大賞を受賞した「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」パク・ウンビンのスピーチを中心に、現代を象徴する今年の授賞式を振り返りたい。

■「私だけのユニークな一面を愛する気持ち、ウ・ヨンウが教えてくれた」パク・ウンビン涙のスピーチに会場も感動

2年ぶりの個人単独授賞となるパク・ウンビンのTV部門大賞は、審査員全員一致だったという。涙が止まらない心優しい一面もいつもの愛すべきパク・ウンビンだったが、口にした授賞の感想は、韓国にとどまらず過酷な現代そのものへ強いメッセージを放つものだった。無論、パク・ウンビンの演技力が評価されたと言うべきだが、やはりウ・ヨンウという存在そのものの影響力が要因だった。

パク・ウンビンは、ウ・ヨンウを理解しようとする彼女の試みが、少しでも自閉症スペクトラム障害を知る良い経験になることと、多くの人が社会について意味のある話をし、多くの関心を持てるよう役に立つことを願ったそうだ。「世の中が変わるために私が一役買うという壮大な夢はなかったのですが、ドラマににかかわりながら、少なくとも以前より親切な心を抱いてもらえるように、それぞれが持つ個性を“違い”ではなく人間の多様さとして認められることを願いながら演じていました」と、声を震わせながら一語一語を紡ぐように語った。

そして、劇中で最も好きだという「私の人生はおかしくて風変わりだけど、価値があって美しいです」を、ウ・ヨンウを通じて伝えることができて本当に嬉しかったと、改めて明かした。「私は知っていても他人は知らない、逆に他人は知っているけれど私は知らないようなユニークな面を、“価値があるのだから美しいと考えなさい”と話してくれるようで、多くを学びました。難しいかもしれませんが自分の人生を認めて、納得し、抱きしめながら力強く踏み出したウ・ヨンウの歩みを長く大事にしたいです」と締めた。

■「この世界中にいるソヒへ」…社会で搾取と疎外を受ける若者に視線を向けた『Next Sohee』

自分とは異なる存在に理解と尊敬を持って生きる。そうしたパク・ウンビンの思いは、百想芸術大賞、いや韓国エンタメ界全体の共通認識だった。映画部門の新人女優賞、脚本賞(シナリオ賞)を手にした『Next Sohee(英題)』は、コールセンターの実習生として働いていた女子高生が死亡した実際の事件に着想を得ている。起きたのは2016年、折しも朴槿恵大統領の弾劾問題で国中が揺れているさなかで、チョン・ジュリ監督を含めほとんどの国民が事件を知らなかったそうだ。

劇中ではペ・ドゥナ扮する刑事ユジンが事件を調査する過程で、大人と社会から見捨てられた若い実習生たちの声をすくい上げていく。チョン・ジュリ監督は授賞スピーチで「映画を観た人たちから、“ユジンのような人が現実にいなくて悲しいと”言われた。しかし、現実には絶えず取材していた記者たちがいて、胸の痛む時間を生き続けている遺族の方々がいらっしゃいます。 その方々が、私たちの映画の“ユジン”になってくれました」と伝えた。

ソヒを演じ新人女優賞を獲得したキム・シウンもまた、「どこかに存在するソヒに、辛い時は大変だと話し、痛い時は大人たちに痛いと話し、元気に一緒に暮らしてみましょう」と壇上から語りかけた。ソヒたちのように孤立して生きる若者に温かく寄り添うこうした言葉は、しかし強い抗議でもある。2014年4月16日のセウォル号事故、そして再び、多くの若者を犠牲にしてしまった昨年の梨泰院圧死事故。無関心な社会システムによる悲劇の犠牲者はいつも若年者や弱者だ。そしてそれを防げなかったのは他でもなく、大人たちをはじめとする大多数の傍観者だったからだ。『Next Sohee』を作り上げたチョン・ジュリ監督、ペ・ドゥナ、キム・シウンもまた、現実社会の“ユジン”その人になったのだった。

■伝えたいのは、互いを尊重する大切さ。多様性を認め合い連帯を誓う特別公演

毎年、百想芸術大賞を俳優たちの歌で盛り上げる特別公演のコーナー。今年は、疎外されて生きる社会的弱者へ向けられたステージだった。

MCのペ・スジによるプロローグは、何でもない日々を平凡に生きるように見える誰かに、「本当に元気でしたか?」と尋ねることから始まった。そして「大衆文化芸術は、平凡な日常を享受できなかった誰かのストーリー、たやすくはないあなたのストーリーへ耳を傾けていました。聞いていました。私たちが今まで探せなかった場所で、痛がり、壊れているだろうあなたへ、この物語を伝えます」と会場へ語りかけ、イ・ジョクの「돌팔매(石つぶて)」が聞こえてきた。2020年にリリースされ、多様性と連帯について歌い話題を呼んだ曲だ。

ステージでは、昨年公開された映像作品の中で、暴力に晒されたり、ハンディキャップを負うキャラクターの姿が抜粋され、そこで社会的弱者を演じた俳優陣が姿を現した。『聖なる復讐者』(5月12日公開)で、知的障害の青年ウォルとその兄イルの一人二役に挑んだパク・ジニョンが、“僕たちはそれぞれ違う みんな似ている存在ならむしろ変だ 私たちは同じではない 人生はいわばそれを知ること”と歌い出すと、『Next Sohee』のキム・シウンと、「ザ・グローリー 〜輝かしき復讐〜」の子役であり「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」でウ・ヨンウの幼少期も演じていたオ・ジユルが続く。さらに、ソヒの恋人の高校生テジュンに扮した新鋭カン・ヒョンオ。「アンナ」ディレクターズ・カット版で、アンナの母で聴覚障害者の役を演じたキム・ジョンヨンは、手話を使い歌詞を示した。子供を愛せず虐げるしかできない母親と娘の壮絶な苦悩を綴る『同じ下着を着るふたりの女』(5月13日公開)からは、娘イジョン役のイム・ジホが歌声を響かせた。

クライマックスでは、職場で暴力を受けるテジュンへ、ユジンが「誰でもいいから、私でも大丈夫だから、話して」と静かに、しかしきっぱりと口にするシーンが流れ、『ベイビー・ブローカー』(22)でIU演じる未婚の母ソヨンのセリフ「生まれてきてくれてありがとう」といった互いを肯定するシーンがちりばめられる。パク・ウンビンも気に入っている名セリフ「私の人生はおかしくて風変わりだけど、価値があって美しいです」の後、パク・ジニョンとオ・ジユルが“Get up 共に抱き起こして 土をはたき落として 僕たちはお互いの味方”と手を取り合い、幕が下りた。韓国エンタメ界の精鋭が総出演した歴史に残る舞台として、長く記憶されるだろう。

■“ウ・ヨンウ”を経た韓国エンタメだけが持つ、より良い社会への希望

さらに踏み込んだ形になったのは、演劇部門演技賞で脳性麻痺の俳優ハ・ジソンが授賞したことだった。シェイクスピアの史劇「リチャード3世」を、生徒会長選挙を控えた脳性麻痺の高校生を主人公に再構築した、アメリカの劇作家による評価の高い演目だそうだが、実際にハンディキャップを持つ役者での舞台化はほとんどなかったという。

「私たちのブルース」に出演したダウン症の画家兼俳優チョン・ウネの例もあるが、当事者性という意味では未だ韓国ドラマも映画も課題が多い。だからこそ、今回のハ・ジソンの授賞は大きな意味を持つ。「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」のようにマイノリティが登場する作品を数多く作りコンテンツとして世に送り出していながら、当事者を現実でオミットするのは、自分たちが作るものも演技も所詮絵空事だと表明するのに等しいからだ。社会的弱者をエンタメとして消費する都合の良いフィクションに、“No”を突きつけようと前進する意思表示ではないか。

振り返れば、今シーズンの韓国ドラマと映画には、挙げればきりがないほど多様な価値観とマイノリティにフォーカスする作品が目立った。そんな風潮を、ポリティカル・コレクトネスへの配慮と穿って見るのは簡単だろう。少なくとも、最近韓国で生み出された良質なエンターテインメントの作り手たちには、冷笑も皮肉も通用しない。「アンナ」の母が聴覚障害者なのは、明確な理由がある。私たちにはハンディキャップを負いながら日常を送る隣人がきっといる。そして心ない現実の中でアンナがボタンをかけ違えたとき、より困難なしわ寄せとして彼女の母のような人々へ向かう。そうした冷酷な事実に目を向けさせるためだった。

登壇したハ・ジソンが、他の俳優陣の位置にしか合わせていないマイクを「高くて不便ですね」と口にしたシーンに、回転ドアに入れないウ・ヨンウの姿が重なる。ハ・ジソンが指摘した高い位置のマイクも、ウ・ヨンウの回転ドアも、私たちマジョリティ中心社会のあちこちに存在する。まだまだこの世界には、想像力が欠けている。しかし、現在の韓国芸能界の姿勢には、この不寛容と無関心で誰かを差別し抑圧する世界を、エンターテインメントの力で少しでも良くしようとする意志が明確に感じられるので、希望を抱きながら楽しめる。いずれこの社会にある“ステージマイク”が、すべてハ・ジソンの傍へ下がる時代が必ず来るだろう。

文/荒井 南